やさしい殺意

 能天使(パワーズ)に昇格してから、一体どれくらいの月日が流れただろう。
 悪魔討伐の役目を受けるたび、友の姿を期待し、期待が外れたことに安堵する自分に呆れていた。
 まだ、迷いがあるのか、と。
 悪魔を討伐するということは、悪魔と直接対峙するということ。
 自分の迷いを見透かされぬよう、その甘言に惑わされる隙を見せないよう、常に気を張ることも、随分なれた気がする。
 それでも、何の誘惑もない天界に戻るたびにとほっとするのは、やはり自分の気付かぬうちに疲れている証拠、なのだろう。
 フィリタスは一人、冬の高原に降り立つと、適当な木を見つけて背を預けた。
 柔らかく波打つ透けるような美しい金色の髪が、冷たい風に煽られて舞う。空色の瞳は、ただ何を映すでもなく、真白の世界を見つめていた。
 前も後ろもわからなくなりそうなほど、一面真っ白な銀世界。自分を惑わすものが何もないと思うだけで、ほっと安堵の息が漏れる。
 此処は、地上における、春夏秋冬の景色を写した場所の一つだ。天使に体感温度など関係は無いが、この一面銀色の寒々しい光景は、天使達には余り人気が無いようだ。
 勿論、此処でも翼を休める仲間を時折見かけるが、やはり他の場所よりその頻度は少ない。
「隣、いいかな?」
 不意に声を掛けられ、驚いて顔を上げる。
 視界に入ったのは、豊かな黒髪を携え、金と銀のオッドアイを優しげに微笑ませた一人の天使。
 天界の裁判官であり、神の審判の実行者、智天使ユーデクス。上級第ニ位に当たる智天使は、中級第三位天使であるフィリタスには遠く及ばない……本来、言葉を交わすことも恐れ多い、雲の上の存在だ。
 フィリタスは驚きのまま翼をバサリと広げ、勢い良く飛び上がる。
「……!ユー……」
 名前を呼びかけると、シーっと指を口に当て止められた。
「お忍びなのでね」
 言われてみれば、普段4枚あるはずの翼が、2枚しか見当たらない。智天使が降格などという大きな話は聞かないので、やはり言葉通り、お忍びでこんな外れまで降りてきたのだろう。
「も、申し訳ありません」
 フィリタスが再び雪景色に降り立ち頭を垂れると、黒髪の天使はいいんだよ。と穏やかに笑って、周囲に広がる銀世界をゆっくりと見渡した。
 元々人気の無い場所だ。今は、他に天使の姿は見当たらない。
「良い景色だね。……何も無い」
 心を静めるには、うってつけだ。そう評する黒髪の天使に、フィリタスも一言、はい、と同意する。
「昔と変わらないな、此処も」
 そう言って目を細める智天使の顔は、穏やかだが何処か遠い目をしていた。
 本来なら話す機会も無いほど地位の異なるフィリタスには、その胸中を知る由もないが。
 もしかしたら、彼も昔、大切な何かをなくしたのかもしれない。そう思わせる雰囲気が漂っていた。
「……以前にも、此処にいらっしゃった事があるのですか?」
 不敬を承知で、疑問を口にしてみると、ユーデクスは視線をフィリタスに戻し、どこか自嘲ぎみに笑った。
「遠い昔の話だよ。良く、翼を休めに、春の丘や夏の森にも足を運んだものだ。
 ぼんやりし過ぎて、つい仕事を放置しては怒られていたよ」
「放置、ですか……?」
 神の役目を、そんな理由であっさりと無視などできるのだろうか。
 上級天使の役目は、もしかしたら自分達とは何か違う仕組みになっているのかもしれない。
 昔を懐かしむように、朗らかに笑う智天使を前に、フィリタスは呆然と話に耳を傾ける。
「それでも、昔はちゃんと探しにきてくれたんだけれども……最近は、中々見つけてくれなくなってね。あまり抜け出せなくなってしまった」
 ならば、何故今日は降りてきたのか。
 疑問には思ったが、今度は口には出さず、フィリタスはただ黙って立っていた。
「そういえば、昇格おめでとう。能天使になったのだね」
 初めてこの智天使に会ったとき、フィリタスは権天使だった。これこそ、彼にとって遠い遠い昔の話。だが、今も自分を拘束し続ける、懐かしくも苦しい記憶。
「ありがとうございます」
 苦い思いを抱えたまま、美貌の天使は礼を返す。
 笑みこそ浮かんでいるものの、その表情は冷たく重い。ユーデクスはそれを穏やかな表情で眺めながら、静かに言葉を続ける。
「だが、君と同じ生まれの子達は、殆どが最終的な地位に就いているのではないのかな?」
「…………」
 もっと上の階級を目指さないのか。暗にそう言われているのは、明確だ。智天使ともなれば、下位の天使が持つ潜在的な力を推し量る事など容易だろう。
 だが、彼にはどうしてもこの地位で居るべき理由がある。
「昇格するつもりはありません」
 はっきりと言い放つ天使を、ユーデクスは表情を変えないまま、優しい声で問う。
「理由を聞いても、いいかな?」
「…………討ちたい悪魔が、いるのです」
「ティオリア、かい?」
「……ッ、……」
 はっきりと名前を出されて、フィリタスの体が強張る。
 今はもう居ない、大切な、大切な友。ずっと傍に居ると、約束を交わしたまま、果たせなかった。自分のせいで、失ってしまった。
「彼は、人間の堅実で純朴な所を好いていました。そんな人間を堕落させる悪魔には、なりたくないと思っていたでしょうから。
 ……ならばいっそ、この手で終わらせてあげたいのです」
「彼を、手にかける覚悟があるのかい?」
「……彼は、沢山のものを私に与えてくれました。今度は、私が彼に返す番です」
 たとえそれが、今の彼の意に沿わないものであっても。
 天使であったときの彼ならば、きっと、終わらせて欲しいと言うだろうから。
 自分は、その胸に刃をつきたてることも厭わない。
「それは、君のエゴかもしれないよ?」
 穏やかな声が、何度も自分に問いかけた言葉を突いてくる。
「そうかもしれません。でも、いずれ誰かに討伐されるなら、私の手で終わらせたいのです」
「……君は、まだ彼が存在していると思うかい?」
「はい。あれだけの知識があった彼ですから、そう簡単には討ち取れないでしょう」
 答えるフィリタスの声に、どこか自慢げな響きが混じる。
 大切な友の頭の良さは、彼にとって自慢で、誇らしかった。
 その気持ちが、まだ心のどこかに残っているのだろう。
 真っ直ぐな瞳で語るフィリタスを、ユーデクスはどこか眩しそうに、それでいて慈愛に満ちた笑みで見る。やがてそっと視線を外して、黒髪の智天使は白い景色をもう一度眺めて口を開いた。
「もし、君が地上で、白い髪の堕天使を見かけたら……」
「ユーデクス様?」
 言葉の途中で口を噤む黒髪の天使を、美貌の天使は心配げに見やる。
 穏やかな笑みを浮かべた智天使は、静かに首を左右に振って、フィリタスに視線を戻した。
「いや、止めておこう。今の言葉は忘れて欲しい」
 今は遠い友を失ったのは、何千年も前の話。容姿も変わっているだろう。
 それに、悪魔へと堕ちていたら、既に討伐され、存在していないかもしれないのだ。

 それでも、それでも、もし神のお導きがあれば。
 もう一度くらい、まみえる機会もあるかもしれない。
 その時は……もし許されるのなら……この手で。

「……見つかると、いいね」
 誰かに、討伐される前に。
「はい」
 己の言葉を飲み込んで、そう締める遠い上司に、フィリタスはただ頷く。
 どこまでも、何処までも遠く広がる白い世界。
 二人の地位の異なる天使は、お互いの胸中に想いを馳せるように、暫く無言でその世界を眺めていたのだった。


end


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