夜も更けた、静かな月夜。
 空を見上げれば、たくさんの星。
 風流なその闇を嗜むように、一羽の白い梟が木の枝で羽を休めていた。
 瞼を伏せ、一見眠っているように見えるが、よく見ると瞼は微かに開いていて、意識ははっきりしているようだ。
 普通の梟には見られない、色素の薄い真っ白なその瞳の向こうで、彼は何を考えているのだろう。
 不意に、その瞳が揺れる。
 顔を上げ、目を見開いて、目の前を凝視する。
 その驚きの表情はすぐに懐かしむような色に変わり、一瞬……ほんの一瞬だけ、濡れた光が瞳に滲む。
 だがその光はすぐに伏せられた瞼の向こうに消え、突然彼を包むように燃え上がった白い炎が鎮火する頃には、冷たい拒否感に満ちた視線のみが残っていた。
 全身に白を纏った、美しい男。
 白い、堕天使。
 肩より少し長いくらいだった髪を後ろに束ね、耳には見覚えのない赤い耳飾りが光っている。
 彼は、先ほどまで留まっていた木の枝に立つと、冷えた色素の薄い瞳はそのままに、唇だけに笑みを刷いた。
「まさか、貴方が地上に降りてくるとはね。
 貴方自ら、私を滅ぼしにきたのかい?」
 問われ、その声の硬さに胸が痛む。
 きっと、私たちの間には、この木々の距離以上に、厚く破ることの出来ない壁があるのだろう。
 答えない私に、彼は吐き捨てるように呟く。
 嗤いながら……今にも泣きそうな瞳で。
「まあ、どちらでも構わないよ、私はもう貴方に興味はないのだから」
「……君を、滅ぼしにきたわけではないよ」
 私は、ようよう笑いながら、そう返した。
 とたん、訝しげにしかめられる彼の、形の良い眉。
「星を、見たくなったんだ」
 言葉を続ければ、ますます理解できないといったふうに顔を歪める彼に、笑みがこみ上げた。
 やはり、覚えていないのだろう、と。
「ふふふ。今日は、七夕だからね」
 かつて、君が教えてくれたこと。
 東の国の、御伽噺。
「川に隔たれた二人が逢うことを、神が許してくれる夜、だったかな」
 私の言葉に、彼が嗤う。
 嘲りを含んだ……諦めにも似た、笑いを。
「随分と記憶力がいい。
 だが、ここには橋をかけるカササギは存在しない」
 見えない川は、広く、深く、無理に渡ろうとすれば、たちまち溺れて流されてしまうだろう。
 それでも。
 私は翼を羽ばたかせ、彼との距離を詰める。
 カササギなどいなくとも、自分の翼で。力で。
 木と木の間ならば、距離を縮めることができる。
 そう、こんな風に、手を伸ばせば触れられる距離まで。
「私たちは、飛べるだろう?」
 警戒でこわばる彼の体を解したくて、私は微笑んだ。
 昔のように、笑えていればよいのだけれど。
「だが、飛行では縮められない物もある」
 肩の力を抜き、呆れたような笑みを作る、彼の顔が寂しい。
 見えない川は、こうして私たちの間を分かつのだろう。
 おそらく、永遠に。
「…………」
 事実に耐え切れず、手を伸ばす。
 その先を問うように、ゆっくりと。
 動かない彼を肯定と見て、私はさらにその頬へと指を伸ばした。
 陶磁のような、白い肌。少し冷たく、滑らかでさわり心地のよいそれ。
 見た目だけならば、昔とかわらない。
 その手触りを確認したくて、私は。
「…………」
 けれど、伸ばした手は、それ以上動けなくなった。
 脳内に響く、居場所を問う仲間の声。
 この声は、同じ智天使のレイシオだ。
「行かなくていいのかい?」
 動きを止めた私を見て、彼はそう促した。
 その顔は、何もかも心得た表情が浮かんでいて。
 その瞳には、寂しげな色があって。
 どうしたらよいかわからず、私はただ苦笑をもらした。
「……見つかったらしい」
「?」
「皆に黙って降りてきたからね。だがさすがレイシオだ。もう見つけられてしまったよ」
 そう告げれば、彼は珍しく驚いた顔を見せた。
 それがおかしくて、私はまた、笑ってしまう。
「ふふ。だから、言っただろう?
 今日は、隔たれた二人が逢うことを、神が許してくれる夜、だと」
 何も進言せず降りてきたが、やはり神には何もかもお見通しのようだ。
 神の許しがなければ、こうも簡単に地上に降りることは出来なかっただろう。
 何の役目もなく、ただ、自分の願いのために。
 私は今、ここにいる。
「でも、もういかなくてはね」
 次は、いつ逢えるだろうか。
 問いかけは、声にならなかった。
 もしかしたら、次に逢うときは、今度こそ、見えない川が私達を飲み込んでしまうかもしれない。
 どちらかが沈むまで氾濫を続ける、敵対という名の、川が。
「地上の星には、満足できたかい?」
 伸ばした手を引き、距離を置いた私に、彼は問うてくる。
 その笑顔に、私も笑みを作った。
「とても、綺麗だね」
 天界にはない、美しい星。
 遠すぎて、触れられないけれど、どんな闇の中でも輝きを失わない星。
 誰よりも眩く輝く、私の……私だけの、光。
「見られて、良かった」
 元気な、姿を。
 名残惜しむ私を急かすように、再び脳裏を過ぎるレイシオの声に、私は瞼を伏せる。
「さよなら」
 聞こえた声に顔を上げれば、昔のような優しい微笑みが視界に飛び込んでくる。
 こみ上げる熱い物をこらえて、私も笑った。
「さよなら」
 名前は、喉につかえて出てこなかった。
 だが、それでいいのだろう。
 今の彼には、今の名前があるだろうから。
 私の知らない、彼の呼び名が。

 私は翼を羽ばたかせ、上空へ舞い上がる。

 見下ろせば、明かりの少ない闇が支配する地上の中、私の求めた星が、眩く白く輝いて見えた。

 その様子を目に焼きつけ、私は今度こそ大人しく、天界へと戻ったのだった。



end.


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