ワンダーブルー


 それは、まさに衝動と呼ぶべき行為だった。

 役目が一段落し、部下に休憩を告げて仕事場を後にする。そして、いつものように翼を一枚隠し、一対の翼で一人下層へ降りた。
 まだ彼が戻ってきていないことは、気配で直ぐにわかる。残念だが、こればかりは仕方が無い。
 今日は秋の湖で待とうかと、畔を目指して湖の上空を飛行していると、ふと見下ろした湖面に気を惹かれ、停空した。

 光を反射して白銀に煌く水面から、視線が逸らせなくなる。

 脳裏に蘇るのは、懐かしい記憶。
 最後にあれを見たのは、いつだっただろう。

 私は、不意に、翼を動かすのを……飛ぶのをやめた。
 当然浮力を失った体は一気に下降し、そのまま静かな水面に衝突する。

 体を襲う衝撃、轟音。
 共に水中へ落ちた空気が、耳元で音を立てて昇っていく。
 体が沈没する動きは、直ぐに水圧によって緩んだ。
 人間ならば、此処で浮力が働き、空気と同じように元居た世界へと押し戻されるのだろう。
 だが、私は敢えて自然の法則を歪め、水中に留まった。緩やかに体の向きを変え、水中で仰向けに横たわる。

 斯くて目前には、上空からは決して見られない、美しく青い世界が広がっていた。
 水面を走る波紋は、規則に囚われない自由さで穏やかな曲線を描き、時に交じり合い、白光の線となる。
 体に付着していた僅かな水泡が上る先には、眩しく大きく輝くの一点の光。
 それは地上で『太陽』と呼ばれているものと、酷似している。尤も、私が太陽を見たのは一度きり……遠い過去の話だ。
 更に言えば、あれが『太陽』を模した物なのか、『太陽』があれを模した物なのか、若しくはあれと『太陽』は同じものなのか。私には、その真実さえ解らない。
 ただ一つ言える事は、その光はとても眩しく、同時にとても好ましく感じるということ。
 もしかしたら、あの柔らかな白金色の光が、唯一無二の友を思い出させるからかもしれない。

 同時に、脳裏に浮かぶのは、友との懐かしい時間。
 この美しい景色を教えてくれたのも、彼だった。

 ── 湖中から見上げる空は、美しいらしい。

 本人は何気なく地上の知識を言ったつもりだったのだろう。が、それを見てみたいと私が此処で試した時、酷く驚いた顔をしていたことを思い出す。
 あの時の顔は、本当に見ものだった。
 今はもう、記憶の中でしかあの顔を見られないのが惜しいが……今は今で、あの時とはまた違った、感情に溢れた友の顔を見られる私は、きっと果報者なのだろう。

 たとえ、彼が覚えていなくても。
 確かに存在した時間を、私が覚えている。

 そういえば、黒くたゆたう私の髪は、湖上からはどういう風に見えるのだろう。
 彼は、私を見つけられるだろうか。

 自身の胸中で問いかけてみたが、答えは解りきっていて、ただ笑みしか浮かばない。

 同時に、私は言いようのない幸せを実感する。
 胸の奥から湧き上がる、歓喜。
 見つけてもらえるということが、これほどまでに嬉しいこととは、再び友と出会うまでついぞ思わなかった。
 一度失ったが故に解る、自分の存在を肯定される喜び。
 どんな場所にいようとも、きっと彼ならば私を見つけてくれるだろう。
 それは、確信にも似た予想。故に、その予想をより確信に近づけようと、つい試してみたくなる。
 それを知れば、きっと彼はあの形の良い目を吊り上げて怒るだろうが。

 思考を巡らせ笑みを零しながら、私は未だ水中で浮遊を続けていた。
 翼を用いることなく浮遊するその感覚は、曖昧で、穏やかで、いつにない睡魔を誘う。
 少し、疲れているのかもしれない。
 思い返せば、ここ二百年程、深く眠るような休息を取っていない。
 丁度良い。暫く、此処で眠っていよう。
 彼が来るのが先か、役目を頂くのが先かわからないが。
 疲労を回復する程度の時間は、確保できるだろう。

 そうして、私は静かに目を閉じた。


 ******************


「……クス! ユーデクス!」
 体を激しく揺さぶられ、頭上から大きく名を呼ばれて、意識が急速浮上する。
 目を開けずとも、それが誰であるかは気配でわかる。
 酷く焦るその声に、思わず笑みが漏れた。
 君がそこまで慌てるとは、随分と珍しい。
 重い瞼を開いて視界に映るのは、揺らぎ霞んだ不明瞭な世界。それでも、此方を覗き込む、白い人影の位置ぐらいはわかる。
「……一体、どうしたのだい、アイゼイヤ……?」
 耳が捉えた自分の声は、寝起きのせいか随分と掠れている。それでも、これだけの至近距離だ。彼にも十分聞こえたに違いない。
「…………」
 しかし、いつまで経っても返事はない。不思議に思った私は、未だ歪んでいる世界を鮮明にしようと瞬きを数回繰り返す。
 ポタポタと落ちる雫の音。視界が揺らいでいたのは、髪から滴る水のせいだったのか。前髪を掻き上げれば、視界は一気に明瞭になる。
 そうして、目の前にいる天使の姿を確認すると、私は驚き……失態に苦い笑みが零れた。
 癖のない白金色の髪、少し気の強そうな瞳。いくら魂が、気配が同じとはいえ、容姿は全く異なるのに。
「おかえり、ホーリィ。すまないね、寝ぼけていたようだ」
「……いや、それはいい、が……体は大丈夫かい?」
「体? 久々にゆっくり眠れたお陰で、すっきりしているよ」
 寝転んだ状態からゆっくりと上半身を起こしたが、特に痛むところもない。敢えて言うなら、背に下敷きになっていた翼が、若干凝っている位か。それも大した問題ではない。
 だが、目の前の若い天使は、必死の形相で詰め寄ってきた。
「……本当に? 溺れていただろう、湖で」
 震える声。今にも泣きだしてしまいそうだ。
 よく見れば、その美しく煌く髪も白い服も……真っ白な翼からも、水が滴っている。私と同じように。
「溺れる? 私が?」
 本気で心配して貰っているのは解るのだが、私には思い当たる節がない。

 溺れる……たしか、人間が水中から出られなくなる状態……だった筈。
 此処は秋の湖。
 私はあの青の世界を見ようと水中に潜って、心地よさに深い睡眠に身を委ねた。
 目が覚めたら私は湖の畔に横たえられていて、彼も酷く濡れていて。
 ……あぁ、そうか、彼は……なるほど!

「何がおかしいんだい?」
 不安そうな顔で聞いてくる彼には申し訳ないが、私は零れる笑いが止まらない。
 滅多に天使は水に入ることがない。故に気が動転したのだろうが、しかし何とも……。
「ふふ。……ホーリィ、君は、溺れたことがあるかい?」
「あるわけがない。天使が溺れるなんて、聞いたことがない」
 彼が訝しげな顔をすればするほど、笑いが止まらなくなる。
 地上での役目を多くこなし、人間を身近で見てきた、今の天使ならではの誤解なのだろうが。
「……私も、天使なのだがね」
「……っ!?」
 驚き顔を赤くする彼の姿に、とうとう堪えきれずに噴き出した。
 あぁ、なんて……なんて愉快なのだろう。
「こ、こっちは本気で心配して……ッ!
 戻ってきて探し出したら、貴方は何故か水中に居るし……声をかけても眠りが深くてなかなか起きないし……!
 っていつまで笑ってるんだ! もういい! 心配した私が馬鹿だった!」
「いや、すまな……ふふ、ありがとう、ホーリィ」
「笑って言われても嬉しくない!」

 羞恥に居たたまれなくなったのだろう。彼は、濡れたままの翼を広げて飛び立とうとする。
「待ちなさい、ホーリィ」
 私はさせまいとその腕を掴み、せめてもの礼と、未だ濡れたままの自分達の体を乾かす。
 振りほどかれないうちにと、瞬きほどの時間で。だが、突然引き止めたからだろうか。彼は逃げる風もなく、動きを止めて少し驚いた顔のまま、此方を凝視している。
 それにまた、笑みが零れるのだが。

「本当にありがとう。私が天使であることを忘れるほど、心配してくれたんだね」
「……ッ!」

 彼は真っ赤な顔で私の手を振りほどき、今度こそ一目散に空を駆けて行ってしまった。
 少しからかいすぎたかもしれない。本来伝えたかった感謝の言葉が、きちんと届いていれば良いのだが。

 しかし今は、彼を追って声をかけるだけの時間はないようだ。
 神から直接脳裏に告げられる役目に、仕方なく私も翼を広げる。

 今度、詫びとして、あの青い世界を教えてあげよう。あの、美しい水中の世界を。
 明彩度の落ちることがない、青く輝かしい万華の世界。
 彼も、気に入ってくれるといい。

 『その時』の期待に胸を膨らませながら、私は下層から上層へと移動したのだった。



end


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