六月の雨は、あらゆる境界線を曖昧にしてしまった。
道も、感情も、世界さえも。

優しいひとだったんだと、何度も何度も繰り返した。
悪いひとじゃなかった。でも弱いひとだったんだよ。
壊れた蓄音機のようにあたしが同じ言葉を繰り返すのを、彼はうんうんと頷きながら、少し困ったような顔で、それでも根気強く聞いてくれた。

彼は、ひどく不思議なひとだった。
女の子みたいに色が白くて、細身でひょろりと背が高かった。縁なし眼鏡越しの彼の瞳は、いつもここではないどこか綺麗な処を見つめているように思えたので、その色素の薄い瞳にあたしの姿がちゃんと映っているという当り前のことを確認する度、どことなく奇妙に感じる──そんな、ひとだった.

その日も、あたしの部屋にいる彼の目にはあたしの顔が映っていた。

『ヤバいからちょっと来て』と雨の深夜、駄目元であたしが送ったメールに、『了解。じゃあちょっと待ってて』と彼が返してきたのは、今からほんの半時間前のことだ。

……まるでピザ屋のようなひとだ、と少しだけ思った。かなり、感謝した。

かといって、別に付き合っているわけではない。
彼には可愛い彼女がいるという噂だったし、あたしにも、まぁそれなりにカッコいい彼氏はいたのだ。ただし、それは『いた』という昨日までの過去形だが。

「……『オレはお前には必要ない』なんて言われちゃってね」

「うん」

「『お前はオレがいなくても生きていけるけど、アイツはオレがいないと生きていけないんだ』なんて真面目な顔で言うんだよ?一昔前のトレンディドラマの台詞じゃないっつーの」

「うん。……でも彼は多分、月9の男なんだよ」

それは何か。
あたしの元彼の性格は、現実よりドラマに近い男だということか。

「…………月9はドラマ世界の玉座なんだから、あんな陳腐な台詞を吐くような人物設定しちゃダメだよ」

だから話をずらさないで、というあたしに、彼は困ったように小さく笑った。

「──見当違いな方が幸せなこともあると思うんだけど」

「……?」

「彼の言葉が、本音なのか浮気相手を取ることへの言い訳なのかは、オレにはわからないけどさ」

そう言って彼は、麦茶の入ったグラスがかいた汗を指で拭った。男の割に随分と細い指の先が、透明に濡れる。
それを更に何かで拭うでもなく、彼は自分の指先を静かにじっと見詰めていた。
──不意打ちの沈黙が落ちてくる。

彼の言葉に、胸の奥がジリジリした。何かが、燻っている。

「……言い訳に決まってる」

あたしは自分をそんなに強い女だとは思ってない。
もしあたしが「彼」が言うほどに強い女なら、腫れた目で今ごろこんな風に愚痴っているはずがない。

「いや、案外本音かもよ?」

あたしを向いて、茶色の瞳がにこりと笑んだ。

「──だってさ、さっき自分で言ったじゃん。『弱いひとだった』って」

そして、優しいひとだった。
頷くあたしに、彼は小さく溜め息一つ。

「強さの基準なんて、当り前だけどひとそれぞれだから。多分その彼から見たら、きっとキミはすごく強いひとに見えたのかもしれない」

あくまでも、可能性の話だけど。
そう言って、彼はもう随分と温くなってしまっただろう麦茶を口に運ぶ。6月の夜は蒸し暑く、窓の向こうから聞こえる雨音はまだ止まない。

「……入れなおそうか?」

「いや、別にいいよ」

こくり、と白い喉が麦茶を飲み込み僅かに動いた。

「──あと、これはオレの個人的な意見なんだけど」

彼の茶色の瞳は、あたしを見ない。
グラスの中でゆらゆらと揺れる琥珀色の液体を見るともなく見つめている。

「やっぱキミは、強いと思うよ」

「……?」

「キミは、自分にとって大切な人間を失っても走れるひとだと思う。その哀しみや怒りを、自分の中でちゃんと糧として消化して、生きていけるひとだと思うんだけど」

それは十分、強さと呼んでいいものだと。
そう、オレは思うよ。

淡々と述べる彼の視線は、相変わらず麦茶の色に向けられたままだった。

「…………」

多分彼は、褒めているんだろう。慰めているんだろう。
でも、返すべき言葉をあたしは持たない。
  彼の言葉はあたしの心をほんの僅か楽にしたが、信じるに足る論拠が無い。他人がくれる優しい言葉を無条件に信じることは、この時のあたしにはあまりに安易な「逃げ」に思えた。

「……なんでそう思うのよ」

「え?」

「──あたしが強いって、何を根拠にキミはそう思うの」

「あぁ、それは」

あたしの言葉に、ようやく彼は視線を上げる。
きれいな指が、あたしの瞼を指し示した。

「──泣いたでしょ? 瞼が腫れてるし、目も赤い。昨夜、泣いたんでしょ」

「……っ」

改めて指摘されると、やはりどことなく恥ずかしかった。
「強い」と言われることにも反発を覚えるが、「弱さ」を知られることにも抵抗はあった。
思わず、顔が、熱くなる。

「そんなに恥ずかしがらなくても」

彼が笑う。からかうような笑いじゃない。
あたしに向かってよく浮かべる、困ったような笑いだった。

「……泣くのは。泣けるのは、いいコトなんだよ?本当にどうしようもなく悲しい時、人は泣けない。その悲しみが少し癒えたら、泣けるようになるんだ」

「…………」

「で、泣き止んだ時には、さらにもう少し癒されてる。この段階まで、キミはもう一人で進んでるわけだから」

キミは十分に強いと、オレは思うよ?

そう、彼は先刻と同じ言葉を繰り返した。
でも、今度はあたしの目を真っ直ぐに見詰めたままで。

「だけど、それでも完治したってワケじゃないってキミは思うよね」

「……うん」

彼が見るあたしの顔は、きっと今、かなり見苦しいことになっているんだろう。
鼻の奥がツンと痛くて、胸の奥からこみ上げてきたもので、なんだか息がし難かった。目尻が、熱い。
泣き出す寸前なのだと自分でわかった。
必死でそれを押しとどめようとすれば、顔が歪む。

彼の言葉が嬉しくて。
治りきっていない傷が痛くて。

それで、今こんなにも泣きたいのかもしれない。
そう思った途端、目尻から一つ何かが零れて、色のはげたジーンズの膝に染みを作った。

彼が差し出したティッシュボックスで、ようやく自分は泣いているのだと気付いた。

「じゃあいい感じに泣けてきたところで、気晴らしに何か話でもしてあげようか」

「どんな?」

ぐずぐずする鼻をかみながら、相変わらずの笑みを浮かべたままの彼に問い掛けた。

「怪談。も少しわかりやすく言えば、怖い話」

「……ちょっと時期早くない?」

「いやいや。季節を選んで幽霊も出てくるわけじゃないんだから」

そして彼は、語り始める。
その話は全てどこかで聞いたような話ばかりで、ほんとはあまり怖いものではなかったけれど。

なかなか止まない涙は悲しみのせいでなく、彼の語る怪談に怯えているせいなんだと。
あたしは少し勘違いをすることができて、
いつの間にか、眠っていた。

──そして。
  次の日あたしが目覚めた時には、彼の姿はもう部屋から消えていて。
テーブルの上の携帯が震えて、メールの着信を告げる。

開いたメールに記されていた内容に、寝惚け眼をあたしは思い切り見開いた。
そのメールは、あたしが昨夜彼に送ったメールが、そのまま宛先不明で返ってきたものだったから。

慌てて昨夜のメールボックスを開いても、そこに彼からのメールは無い。

そしてあたしは思い出す。
あたしの大切な友人は、 一年前のこんな日に、 遠くへいってしまったことを。

止まったはずの涙が一筋、頬を伝って落ちた。
窓の外、雨はいつの間にか、降り止んでいる。

《fin》