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侵蝕してくる姪の誘惑 最終章


最終章 夭折防止機関の淫靡なる日常



 生まれた子供は社会全体で面倒を見る。花粉が人命を奪う時代になって以降、それが社会通念となったし、政治の仕組みにもなった。

 全国にたくさんの施設、夭折防止機関が建てられ、子供たちはみんな、そこに収容されることを義務づけられた。その最大目的は、生命の維持である。

 とりわけ男児の死亡率が格段に高かったため、細心の注意を払って、花粉対策の薬剤と、その薬剤の副作用と、両方に闘いを挑む。

 女子は花粉で死ぬことがほとんどなかったものの、薬の副作用は、やはり小児には重荷だった。男児はそれでも、花粉に倒れた。対症ステロイドの有効性も思ったほどには高くなく、残念な結果になることも、やはりそれなりには残っている。

 とはいっても、以前ほどの死亡率ではなくなったし、危機に瀕したときの緊急医療体制は万全に整えられ、延命治療の甲斐があって、なんとか生き残ったという子もいる。

 子孫がいなくなってしまう可能性を孕んでしまっているため、日本の対策と研究は、世界中の注目を集めていた。

 対症薬剤の副作用もかなり強い。それによって多臓器不全に陥るリスクは、小児において顕著でもあったため、一命を取り留めさせるために、あらゆる手が尽くされた。

 そのためにも、一定期間、全員が施設で暮らし、教育を受け、大切に大切に育てられることを余儀なくされていたのだった。

 そうした努力の結果、依然死亡率は高めではあるものの、かつてほどには人口減少が急激ではなくなっている。絶滅のピンチは、科学の進歩と、社会システムの不断の努力とによって、どうにかこうにか、回避できたのであった。

 しかしながら、その代わりに、対症薬の副作用のひとつが、大きな社会問題となっていた。生殖不能に陥る人々が多く現れたのだった。それを抑える方法は、現時点では確立されていない。

 それだけ強すぎる薬効のせいで、どうしても「花粉かステロイドか、さもなくば無生殖」という、究極の選択をせざるを得なかった。目の前の命には代えられず、人々は強すぎる薬剤に頼るしかなかった。

 不妊によって次世代の子供が生まれにくくなる、しかも極端に減るということが、花粉対策の代償なのであった。

 子孫がいなくなるかもしれない。その危機感を、政府首脳部は強く意識した。多くの人々も、そのことがたいへん気がかりだった。

 生物としての本能が働いたのか、次世代がほとんど生まれなくなる危機意識は、きわめて強く作用し、人々の精神を根底から覆してしまうほどであった。

 それは、生殖というもの、性的な行為というものの意味づけを、かつてとは180度転換させるほど、強烈なものであった。

 かつては、女性は性的なものを嫌い、好みでない男性からのアプローチをきわめて憎んだし、いうまでもなくそれを強制的の乗り越えて性的衝動を解消してくる輩には、きわめて重い社会的制裁が待っていた。

 犯罪として処罰され、実名で報道されて世の中全体から手厳しく攻撃される。仕事も制限され、憎むべきレイピストどもは、生存の機会をも奪われていた。そして、それこそが本来の、あるべき正しい姿でもあった。

 社会的機能の維持のために、性犯罪の撲滅は、どうあってもなくてはならないものであり、その蔓延はすなわち、社会の安定機能を根底から狂わせるほど、重たいものにほかならない。

 性衝動の解消のためなら手段を選ばない、悪逆非道なビイストは、人間とみなされなくて当然である。社会的生物として失格であり、世の中で平穏に暮らす権利を永久に失っていい。

 そのくらいに、女性に対する、彼女たちが嫌がるような実際の行動は、当然厳しく制限されて然るべきものだ。そこからの逸脱は、社会的な死を持ってあがなわれなければならない。

 もしそんなことを公然と許すようであっては、誰が誰の子を産むか分からず、人間の尊厳も100%失わせる。当然、安全で平穏な日々の生活は、人々から奪い去られてしまうことになる。

 事実、治安のひどく悪い地域や軍事組織の支配する地域、紛争地帯などでは、男性による女性に対する性攻撃は蔓延し、児童婚さえ公然と認められる場所もある。安定機能はその分、ますます損なわれ続けることになる。

 本来、性的表現というものは、そうした性的欲動を、言葉や音楽、絵、像などで昇華させ、これらで自慰的に解消させる役割を果たす。

 ポルノが社会悪とされ、これを表舞台から積極的に排除しようとすることは、かえって上記の悪辣なる獣どもを地上に解き放つことになるだろう。想像で抜いて解消できる段階に押しとどめられているからこそ、それが徹底されているからこそ、安定秩序が保たれる。

 そこにまで侵蝕しようとする規制は、かえってより大きな害毒をもたらすことになる。ポルノを悪イメージに直結させ、厳格に「区分け棲み分け」を行おうとすることこそ、本当は悪しき思考慣習なのではないだろうか。

 性表現は、もっとオープンであっていい。18禁とかなんとか、表と裏をくっきり分けきってしまうことこそが、表現に対する攻撃の根源となり、かえって青少年の健全な育成も、女性をビイストから守ることも、著しく阻害してしまうことになる。

 1人の人物が、同時にエロティックでも政治的でもあって何ら不自然ではない。むしろ逆に、両者を絶対的に別物にし、例えばツイッターなどで別垢にしなければならないと考えてしまうことの方が、よっぽど不自然なことなのである。

 そうした思考は常に、エロを悪そのものと位置づけ、人間の生物的な側面を徹底的に無視するものである。

 同時に両方があって止揚された状態こそが、すなわちオープンなエロ”表現”の状態が、じつは社会的にも適切なのだ。規制主義や分別主義には思い込みだけがあって、確たる根拠など存在しないではないか。

 2020年段階では、まだまだ、そのように性的なものを絶対悪であるとする風潮が支配的であった。だが、そこから20年以上経過し、花粉が人命を奪い、さらに子孫存続が危ぶまれるようになると、矛盾した規制的思考は、一気に瓦解した。

 それどころか、まったく逆に転向してしまって、極端にものの考え方がひっくり返ってしまった感覚さえ否めない。

 とりわけ女性の価値観が、段階的にではあるが、大きく転換した。

 ある程度の年代になると、諦念も手伝ってか、「別にいいや」と思うようになり、それほど積極的には異性を求めない傾向が見られるけれども、つまり一生独身で子供ができなくても構わないと考える傾向を持っているけれども、それより若い世代の女子たち、10代女子たちは、そういうわけにいかなかった。

 彼女たちは多感で、性衝動も強く、恋愛もしたい年頃。しかしその相手が、なかなか簡単には見つからない現実に直面している。

 20年前なら男なんざよりどりみどり、選り好みさえしなければ、いくらでも”相手には困らない”世の中だった。

 だが、世情は一変し、女余りがきわめて過酷になった今、本来あるべき求めが、まるで達成できず、彼女たちは一方的にフラストレーションを溜め込むようになっている。

 追い打ちをかけて、不妊率が急上昇し、仮に相手にありつく幸運に恵まれても、子供を授かれるかどうかまでは保証されない世の中だ。

 そんな中で、政府は子供たちの夭折を防ごうと、一律で施設育成を決めた。そして、女余りの解消には至らないけれども、なんとかかんとか、一部の男女が延命して施設を出るという、一定の安定感を維持することだけには成功したのであった。

 少女たちの思考の転換は、20代以降の女性たちよりも、露骨に著しいものだった。彼女たちは相手に恵まれない不満を、いつ爆発させてもおかしくない状態だった。

 そのため、かつて男たちがそうであったように、少女たちは性衝動に実直になり、積極的に男性を強く求める存在に変貌した。

 世代によってギャップはあるものの、触発された大人の女性たちもいて、性的なものを、嫌悪すべきもの、鳥肌の立つもの、いやらしいことは恥ずべきで吐き気を催す邪悪だ、という通念は、すっかり消えてなくなってしまった。

 それに合わせるように、法改正もなされ、妊娠の可能性を少しでも上げるよう、首脳部側も動くほかはなかった。そして、少女たち世代の強い精神の表れ、反映として、社会の仕組みも大きく変わっていくことになる。

 夭折防止機関は、子供たちの命を守るために設立されたものの、同時に、次世代を絶やさないためのセーフティネットとしての機能を、すぐに果たすようになっていった。

 この機関の教育システムは、所属する若すぎる世代の女子たちの強い共通意識、潜在意識の反映でもあり、彼女たちの希望をもっとも効率的に叶える仕組みでもあった。彼女たちの方こそが、このようなシステムを無意識のうちに求めていたと言える。

 それは、女性の妊娠可能性を少しでも引き上げるよう、10歳からの性本番行為はすべて合法とする上、彼女たちも積極的主体的に、より多くの性行為の機会に恵まれることを望み、受け入れていく制度だった。

 男性による暴力的な性交は依然として禁止ではあったがそれは当たり前で、高齢男性、団塊ジュニアとされる生き残りの暴走を防ぐ目的があったので、禁止事項は依然残されていたが、ほとんど建前に近いものだった。

 女性が望みさえすれば、年齢に関係なく、セックスは違法でなくなり、むしろ推奨される行為として賞賛された。そのくらいに次世代がピンチだったのである。女子たちも、世の中に推奨されるまでもなく、自分から自発的に男を受け入れていった。

 その機会自体がきわめて少ない時代、男があまりに減ってしまった世界で、彼女たちはかえって、男性に迫り、その精を自身の肉体で奪い取ることを、いつもいつも追い求め、チャンスがあればすかさず実行に移す精神に、すっかり変わってしまった。結果、禁止事項に触れるケースは皆無となった。

 無償で男性には、「精力回復薬」が支給された。毎日飲んでも有り余るくらいの量が支給され、少年から老人まで、この薬剤は手放せないものとなった。元気や活力の源にもなっている。

 これを飲むと、通常の何倍ものスピードで性欲が回復し、性分泌ホルモンが極端に活性化され、精子細胞が急ピッチで再生産される肉体へと、急激に変えられていく。

 それは中年男性をして、週に何度も夢精をさせてしまうくらいに強力なもので、彼らのペニスを中高生以上の精気に溢れかえらせ若返らせ、一日に何回でも射精ができる状態にする。

 子供が服用すれば精通が極端に早まり、10歳段階で生殖細胞を放出できるし、もともと性欲ギンギンになりやすい若者が服用すれば、さらに強烈な性感の虜となり、四六時中欲情しては異性を求める肉体に変わってしまう。

 また、この薬剤は性感に敏感となり、少しの快楽刺激だけで射精の律動を始めることができるようになる。

 女子たちががんばってテクニックや腰使いを執拗に続けるまでもなく、多くの男たちが、彼女たちの肌、生足、性器の感触にほだされ、あっという間に高められて、数分とかからずに簡単に射精するくらいに、快楽に過敏になっている。

 まして性に不慣れな少年なら、たっぷり何度でも、何人にでも子種を吐き出させることができた。

 そういう薬剤も手伝って、妊娠の可能性を確実に上げられるよう、念入りな手配が行われているのだった。

 これで街中昼も夜も、世の中の至る所で性交がくり返され、ドクンドクンと絶えず脈打ちが続けられ、大量の体液が大勢の膣内に飲み込まれる構造が出来上がっていた。

 こうした中、男女問わず、誕生と同時に子供たちは全員、この施設に収容され、男女とも10年間は、そこで暮らすことが義務づけられる。親戚の集まりなど特別な許可がないと親の元に戻れない。

 これは法的な義務とされ、生命維持のために欠かせないシステムとなっている。

 子供たちは、初めの6年間、生命維持のために全力投入される。花粉対策の隔離、薄めたステロイドの少量ずつの投与。特に男子が夭折しないよう、細心の注意が払われる。

 それでも生き残れるのはわずかな男子で、多くは花粉に倒れ、また、強力な薬の副作用に、多臓器不全を併発した。女子は花粉の影響がなく、後々のための対症薬でもほとんど生き残ることが可能だった。

 結果、世間一般では男1対女20の比率であるのに対して、6~7歳段階で、男1に対し女5という生存率をキープできた。夭折防止機関は一定の功を奏しているのも確かだった。

 これで第一の関門クリアとなるが、まだまだ油断はできないので、引き続き、幼き男女の健康状態には、細心の注意が払われ続けることになる。

 そして、この機関のもうひとつの役割である“教育”部分も、この年代から開始される。かつてと異なり、一年生、二年生に相当する学年だからといって、基本的なことをただ学ぶという時代ではなかった。

 機械化・自動化が進んで、タブレット操作で最適な効率の学習が可能となっており、学習内容はずいぶん先へと進めることもできる。

 施設を出るころには、ほぼ中学生が身につけるべき全学習内容までを習得できている。出て以降の学校もそれに合わせて、進んだ学習内容を、ごく短時間で実現できた。

 一日のうち、午前中だけ、勉学をすればよい。残りの時間は、別の“教育”に当てられた。

 現在の社会情勢、花粉によって何が起こっているのか、自分たちが現在置かれている状況などを、正確に教え伝える学習が軸だ。

 高齢人口が壊滅状態にあり、男の生存率が極めて低くなって、若い女性や女の娘たちが過剰に余ってしまっていること、さらに妊娠の可能性が極めて低くなり、次世代の子孫がめったに誕生しなくなっていて、それが日本社会の将来を破滅に導きかねないこと。

 20年前までは人口が多かった時代で、だれもが過剰に労働し、過剰に物欲と金銭欲を求め、過剰に環境を消費し続けていたこと、そのために、当時の人々が「過剰と不足は表裏一体」であることにまったく気づけなかったことなどが教えられた。

 低年齢に合わせた表現ではあるけれども、正確に現状が伝えられ、子供たちは状況を徐々に理解していく。自然を支配し、搾取しようとした結果、花粉の変異という形で、思わぬ打撃を、よりによって日本だけが、一手に引き受けてしまっている。

 外国ではほとんど変化はなかったが、日本の行く末を注視している。経済大国であったがゆえに、そのダメージは世界経済にも計り知れない影響を及ぼしたためだ。

 ただし、花粉は人から人への感染がなく、現地で蓄積しないかぎり毒性を出さないので、日本人が海外で活躍することは可能だった。けれども外国から日本に働きに来たりビジネスに来たりは、結局はばかられた。

 現地に来れば自分も危なくなってしまうので、取引はあくまで、日本から派遣されて外国で行われるという形式が取られ、それで事なきを得ている。逆に、現在でも、海外から人が来ることはほとんどなく、禁じられているままである。

 わざわざ来日して、毒性のある花粉をたっぷり吸い込もうという物好きもいないし、ネット環境が整備されているので、移動の必要自体がほとんどないのだった。教育環境が進んで、この時代では誰もが、簡単に数カ国語をマスターできてもいた。

 そうした経緯によって、日本国内での人口は目減りしていったけれども、経済的なダメージはあまりなかった。

 海外取引が盛んなままだったので、経済的な強みを発揮できた。一方、働き手が減ってしまったため、労働は自由性を高め、労働単価もうなぎ登りに上がっていく。

最低賃金ではなく推奨賃金が設定され、多くの企業が、好況のゆえに、それ以上の給料を支払いつつ、技術進歩で人手不足もAIロボが補ってくれて、労働時間もどんどん短縮されていった。

 過剰生産、過剰消費が見直され、過剰は常に別の不足を生み出すという哲学が浸透して、「それなり」でありさえすれば良い、という中庸の思考が一般的になった。

 その結果、人々はリモートワークで半日だけ仕事をし、あとは自由を謳歌できるだけの経済収入を得られる、理想的な社会状態を実現できた。外国ではこれがまだできていない。

 こうして、花粉の災禍は、世の中を大きく進歩させ、人々の考え方も変え、生き方を根底から覆した。一見悪であり、悲惨でもあった諸々の現象は、他方でまったく思いもかけぬ進展を、人間社会にもたらす。

 人生で不幸があっても、そこからこそ、あたらしい善が芽吹くのであり、物事の失敗は最大の教訓となって、未来をより豊かで美しく幸福なものにしていく。マイナスは単純にマイナスなのではなく、次の大きなプラスに転ずる原動力になる。

 大量で過剰な消費社会では気付くことのできなかった、シンプルだが本質を突く思考習慣が、すでに世の中には確立されている。その大切なことを、少年少女たちは幼い頃から念入りに教え込まれるのである。

 ただし、つねにプラスの状態で「最終決着」することは決してないことも、重ねて教わっていく。何かが好転し、解決したならば、次の壁、新しい課題が、のっぴきならない深刻な形で、我々の前に突きつけられる。

 それを超えてこそ、さらなるプラスになるのであり、不幸や悲惨は絶対になくなりはしないということを、包み隠さずに伝えていく。

 解決したら次が必ずあるということ、絶対的な安心というものはなく、人間は常に、よし次だとチャレンジさせられる存在なのだと、幼少時代から厳しく叩き込まれるのである。

 そうして、自分たちが直面している、その「次の課題」なるものこそ、次世代が壊滅的であるという事態にほかならない。

 そのための対策として、女性が望みさえすれば、低年齢からの懐妊・出産は合法であり、いくらでも推奨されるシステムになっていることを教わる。

 また、女の子は性的なものを決して嫌悪せず、その快感はいつでも確実に善であることも、人々がそれを善として受け入れていることも教えている。妊娠の機会がそれだけ増え、さらに生殖の行為が快感であることもきちんと伝える。

 そうしなければならないほど、子孫が生まれにくいということとあわせて、君たちも施設を出たなら積極的に快楽に忠実であるべしと教育され続ける。

 そうはいっても、まだまだ、少年少女たちは、性行為というものの実感はまったく湧かない。

 性教育は事細かに伝えられ、なにをどうすれば、どこに生殖細胞が着床して、どんなメカニズムで次の命が誕生するかまで教わるにもかかわらず、小学1~2年レベルでは、肉体の成熟がまったくないので、「自分たちは“将来なら”そうなるんだなあ」程度にしか考えも及ばないのである。

 施設には10歳になるまでいなければならない。それは、男子が射精可能になり、生殖細胞を吐き出せる年齢だ。とはいうものの、自然に精通するのは13~14歳くらいで、同学年女子よりもはるかに遅い。

 そのため、精力回復の薬を毎日飲むことで、初精通が可能となる年齢をぐっと引き下げているのである。

 それに対して、女子の肉体成熟は格段に早く、背が早く伸びるのも女の子の方だし、身体に性的特徴が現れるのも、女の娘の方がずっと早かった。

 女子は早熟で、10年も生きれば初潮、妊娠可能な子宮能力を持ち始めてしまう。これで、男女あわせて、10歳を境にして施設を出ることができるというカラクリである。

 そして、やはり女余りは極めて深刻なため、女子の性欲は、かつてとは比較にならないほど上がり、しかもその解消手段がほとんどないために、すなわち男不足のゆえに、フラストレーションとして溜まっていくことになる。

 射精可能な男に出会った途端に、それが爆発することもめずらしくなくなった。つまり、セックスが成立した時点で、100%女子は性欲の塊となっているのであり、ひたすら快感に没頭して、男の精を奪い取ることに、至上の性感と悦びを見いだしていくことになる。

 相手が誰であれ、どんなに歳が離れていようと、容姿も何も完全に無関係だった。生殖に与れるチャンスに恵まれただけで、もっけの幸いとばかりに、彼女たちは欲情の赴くまま、衝動的に性感を満足させ続けた。

 かつてなら、本能的に、性的な欲動を持つのは専ら男の側で、女性はそれを生理的に嫌悪し、吐き気がするほどゾッとするいやな感覚を持って、一生引きずるトラウマにさえなりかねないほどの衝撃を受けてしまうほど、性行為は「おぞましいもの」とされていた。

 彼女たちは誰に教わるでもなく、自分が受け入れた相手、ごく限られた異性でなければ、性を解放せず、それ以外の男から行為をされたり、写真を撮られたり、じっと見つめられたり、あるいは愛情を持って近づいてくる・話しかけてくる異性をさえ、激しく憎悪し続けた。そっちがどうやら、動物的本性のようだ。

 だが、女余りが深刻化し、かつての世代が持ったこともないようなフラストレーションのストレスに、毎日休まず晒され続けることで、少女たちの意識は根底から覆っている。そのことも、少女たちは1年生からしっかり教わり、覚悟を決めるようになっていた。

 これに比べ、男性サイドは、「それなりならいい」という中庸思考が手伝って、性欲増強・精力回復の薬剤を日々飲んでいるにもかかわらず、2020年代に比べてさえ、極めて淡泊な性衝動を持つようになっている。

 女子が肉食化するに比例してか、男子はかえって、性欲にほだされて積極的に女を追いかける存在ではなくなった。

 周囲は異性だらけであり、その気になればいくらでも行為できる余裕があり、それでいて昔の男たちのような性感に思考を奪われるということが、かなり減少している。

 こうして、女が求め、男が拒否するという、かつてとはまったく逆の性衝動現象が一般化した。薬剤の影響で補ってさえ、その傾向がどうしても残ってしまう。思考の習慣とは生理現象をも左右してしまう。

 それでも、女子が本気で求めてきて、誘惑すれば、薬剤の効果で、ちゃんと勃起でき、そのまま行為に至れる。そしてごく短時間で男たちは射精し、しかもその場で何回でも精液を放出できるので、一度に複数人の女を受胎させることができるのだった。

 男の側から積極的に求めなくても、女たちが集団で迫ってくる日常が常態化しているので、それで男女間の性欲のバランスは保たれているのだった。

 そこまでを教わった少年少女たちは、どこか他人事のように、午後の授業訓練を受け続けるが、肉体が成熟していく過程で、徐々にそれを実感として体得していくようになる。

 2年生までは、知識一辺倒で、あまり性感というものの実態を、その肉体にじかに感じ取ることはできないままだ。当然、この世代どうしでの生殖行為はできず、セックス本番に及ぶこともなかった。

 知識はあっても実感がないため、身近な異性がいても、その肉体を求めようとはしなかったし、挿入ができる性器を、男女ともまだ具えていなかったためである。

 そのため、機関では、1,2年生男女に対して、夕方から夜にかけ、性欲開発プログラムを実施する。

 午前中に一般的な勉学をどんどん進め、午後に社会情勢と性教育が施されると放課後になるが、課外学習として、男女が別々に行動して、用意されたプログラムをこなしていく。

 男子は成長が遅く、しかもまだまだ夭折の可能性が大きく残っていたために、慎重に慎重を期したプログラムが実施される。

 機関が「登り棒効果」と呼んでいる、シンプルなシステムであった。

 男子たちは、5~30センチくらいの、さまざまな太さがあるポールが垂直に乱立する部屋に入れられる。かつて学校に存在していた「登り棒」の変化系だった。本来の登り棒は5センチ程度のポールなのだが、それを太くし、電動する仕組みになっている。

 昭和の時代でも、登り棒に捕まったままじっとしている男女は一定数いた。

 理由はまったく分からないけれども、棒に跨がってぎゅっと脚を閉じ、上にのぼって下に降りるシンプルな動きをゆっくり続けていると、じわあぁ……っと股間がくすぐったく、ほんのり気持ちが良い刺激がペニスから会陰、お尻の穴へと、ゆっくりと拡がっていくのである。

 彼らはわけが分からないままで、ただしがみついているとどことなく気持ちいいという感覚に襲われ、日を追うごとにやみつきになっていって、またじっと登り棒にすがりついていた。

 これは、クリトリスやペニスが硬い棒にこすれ、会陰部分や奥の前立腺までも圧迫してじんわりと刺激し続け、その刺激が快感となって、少しずつ、侵蝕するように身体の奥、下腹部から全身へと拡がっていくために、「なんとなく気持ちいい」が長時間続くために引き起こされる現象であった。

 機関はそこに目をつけた。俗に「登り棒オナニー」と呼ばれたその性感刺激なら、生殖行為ができない男女であっても、性的刺激と快楽を教えることができる。

 男女に「この気持ちよさがさらに格段に進化したものがセックスだ」ということをきちんと教えながら、登り棒に捕まらせるのである。

 登り棒といっても、実際に上がったり降りたりと、無駄な筋力を使う必要はないよう設計されている。体力が損なわれて、そこに花粉やステロイドの脅威が襲ってくることは防ぎたかった。

 色々な太さの棒にしがみつかせ、硬い金属棒にぎゅうっと股間を押し付け、内股になって、お尻をキュンと引き締めるだけでいい。棒の硬い刺激が、敏感で幼いペニスを直撃する。

 それだけで、男の子たちはじんわりと、ほのかな性感の心地よさを味わうことができた。それは恥ずかしいことでも何でもなく、世の中で推奨されている性の悦びの前段階にほかならないことを、実感として教えるのだ。

 誰でもが持つ当たり前の感触であり、それを正直に追い求めることが美徳であると。

 棒はゆっくりと自動で動き、上下にじっくり勝手にこすれる仕組みになっている。これによって、玉袋もペニスも、棒の硬い感触が自動的にこすれていき、ほんのりくすぐったい性感の刺激が、さらにきゅんきゅんと少年たちの股間の奥底へと送り込まれていくのだった。

 6~7歳の、性知識はあっても実感をまったく伴わない少年たちは、女体ではない、硬い棒の感触で、長時間、ほんのり拡がっていく性感のくすぐったい心地よさを味わい続けることができた。

 彼らは興奮し、積極的にさまざまな太さの棒に抱きついて、ぎゅうううっと内股になってブルルッと打ち震え、我を忘れて棒にしがみつく。棒が上下にゆっくり動くことで、実際に登ったり降りたりするときの刺激もバッチリ子供たちに味わわせられた。

 15分に一回程度、ランダムに、疑似登り棒は、ヴヴヴっとバイブした。部屋のあちこちで悲鳴が上がる!

 じんわり拡がっていた性的快感刺激が、突然ランダムに一秒間震えるその金属振動の刺激で、急激に強まったためである。これは、登り棒に腰を振って股間を意図的にこすりつけたときに発生する刺激であった。

 ますます気持ちが良くなり、少年たちは息を荒くしながら、好みの太さの登り棒で性的快楽を愉しんだ。

 とはいうものの、やはり幼すぎる肉体ゆえに、この刺激が強くなったまま持続し、執拗に続けられると、やがては「勃起」にいたり、そのまま性感快楽が続けば、「絶頂」が訪れるということを、知識の上では分かっていても、その小さすぎる肉体に味わうことは不可能なのだった。

 いくら登り棒オナニーをさせられても、少年たちはペニスを隆起させることができない。やわらかいまま、登り棒を内股に挟み込む性感だけで、それがじわじわじわっと一時間以上続くだけの、くすぐったい気持ちよさの継続でしかなかった。

 勃起もできないため、登り棒の刺激が一時間以上続いたところで、彼らのペニスが律動を始めることはなかった。また、幼すぎるゆえに、少年たちも絶頂までガマンできない、ペニスを脈打たせたいという衝動に駆られなかった。

 登り棒にしがみつく時間が終われば、彼らは身を離し、放課後課外学習も終了となり、自由時間として、寮に帰る。あとはゲームでも運動でも、体に障りがない範囲で、好きなことをしてよかった。

 男子への性欲開発プログラムは、これで終わりとなる。知識として知っているオナニー行為は規則で禁止されていたし、少年たちもやり方を知っているけれども、禁止されていることを犯してまでやってみようと思う者はいなかった。

 脳も身体も、そこまで発達できていなかったためである。

 これに対して、女子の方のプログラムは、やや異なっている。

 登り棒は、木馬のように真横に取り付けられていた。彼女たちは、縦の棒ではなく、真横の棒に跨がるようにして、しかもパンティまで脱いだ形で、じかにオンナ表面を棒にあてがった。

 背の高さがまちまちなので、棒の高さも調節できた。プログラムの規定どおり、かかとをつけて立っていると股の間に鉄の棒が硬く食い込むくらいの高さにしなければならなかった。

 女子用の棒にはあちこちに突起がついており、凹凸のある金属棒となっていた。凹んだ部分も突起した部分も、オンナ表面に強く当たると、それだけでじんわりと、やはり強い性感がオンナの奥へと広がり、やがては全身へと快楽がこそばゆく拡大していく。

 女の娘たちは、それが性の快楽であることを教わりつつ、突起が耐えがたい心地よさであることを、じかに女性器表面に叩き込まれる。クリトリスに硬く食い込んでくる金属棒が、ペニスが味わう性感よりもはるかに強い快楽を、少女たちに送り込んだ。

 こちらの棒も、電動する。ゆっくりとだが、前後にこすれていく鉄棒は、オンナ表面に凹凸をこすりつけ、出っ張りがクリに当たると急激に刺激が強まった。

 少女たちは歓喜と驚きの叫び声を上げながら、ほぼ本能的に腰を前後させ、くねっくねっといやらしく腰回りを揺り動かして、鉄棒の性感刺激に酔いしれる。15分に一回のバイブ電撃で、即座に絶頂してしまう娘もいた。

 男子がイク快感を知り得ないのに対して、早熟な女子たちは、その刺激で愛液を垂らし、そのままイクほどのアクメ感覚を、身にしみて体験できるのだった。

 少年たちがカウパーを垂らす可能性がないのに対し、女児はすぐに粘液を滴らせるので、下着も脱いで、じかに棒に跨がらせていたのだった。

 少年たちと決定的に異なり、2年生までの女子たちは、30分弱で、この棒責めで絶頂してしまう。残りの時間は、「実技訓練」に当てられた。

 ペニスに見立てた棒を、実践ビデオのとおりに手で扱き、指先で亀頭先端を責め、口で吸い上げ、生足の間で挟み込む。お尻の肉で棒を潰し、舌の動かし方も学ぶ。棒にも種類があり、硬いものからゴム製のものまで様々だ。

 包茎に見立てたやわらかいハリガタは、舐め続けると甘い蜜がじわりと出てくるように仕掛けられているので、少女たちは日増しにフェラチオの技能を向上させていく。これは、同世代の包茎男子でも性欲対象にするためのプログラムの一環だった。

 挿入行為とパイズリ以外の、性技全般が、少女たちには訓練課題として与えられ、手コキの仕方、スマタの方法や、生足で挟むときの内股の角度などを、日々研究していく。

 イザ施設から外に出たときでも、容易に男性を勃起させるテクニックを、初めのうちから教え、上達させることで、効率よく精を奪えるように仕立て上げる目的と、少女たち自身の溜まっているフラストレーションを解消する目的の両方が、これによって満たされるのだった。

 じわじわと性的な側面を肯定し、際立たせ、推奨していくプログラムは、人格をねじ曲げるものというより、時代のニーズに合った、もっといえば若娘たちの無意識の欲望にもっとも合致するものであった。

 少女たちの満たされないストレスは、20年前の男どもの比ではなく、放っておけば容易に爆発しかねないレベルに達している。それをもっとも効率よく手早く最大限に解消する手段を持たなければ、その爆発は思わぬ悲惨を招くかも知れない。

 そうなる前に、彼女たちの満足感を素早く高めてあげれば良く、その方法を早いうちから教えておくことは、この時代の社会安定に決定的につながるものであった。

 男女ともに成長する。

 3~4年生児レベルになると、女子たちの身体に著しい変化が現れ始め、性的な行為をすんなり受け入れていく準備が整い始めてくる。

 ただしそうはいっても、まだ受胎可能な肉体に完成していないので、すぐさま外の男たちや施設内の男子たちに身体を解放して挿入行為に及ぶ、というわけに行かなかった。

 無理をすれば性器に損傷を及ぼす危険性さえあるので、ここは慎重な機関の判断で、彼女たちの身を守る方に重きを置いた。

 教育の水準は高く、なおかつすっかり生殖行為を受け入れ、それどころか自発的に求める思考が出来上がっている少女たちは、いちはやくタイケンしてみたいと気持ちをはやらせるが、機関側がそれを厳しく押しとどめる。もっとも気難しい時期だ。

 彼女たちは性欲が解消されにくいストレスに毎日じかに直面し、うずうずと身をよじらせて顔を上気させるのに、周囲の男子たちはみるみる減少し、さらに訓練プログラムも、すでに習ったことのくり返し、上達目的ばかりで、絶頂機会はあまり訪れない。

 人工的に処女膜は切除されているものの、まだ硬くて太い物質をオンナに入れるわけにはいかない。オンナ表面を摩擦し、振動させる以外に、絶頂の手段が用意されていない。

 男女ともに、自慰行為は厳しく制限されている中で、彼女たちのストレスはピークに達している。

 しかしながら、機関側は彼女たちの性欲に、厳しい対応を取った。これは、仮に外に出て、すぐさま勃起可能な男性が見当たらず、一週間以上“おあずけ”をくらっても大丈夫なように、精神を鍛える目的があった。

 彼女たち自身もそれを理解していながら、溜まるストレスを簡単には処理しきれないでいる。そんな難しい年頃を迎えていた。

 一方、男子の側は、この時期に、2つのクラスに分けられ始める。3年男子Aクラスは、女子と合同だ。女子は全員がAのクラスで、人数でA1組、A2組……と振り分けられていく。

 Aクラス男子は、健康で、命に別状なしに、なおかつ対症薬の副作用もなかった側である。

 Bクラスに割り振られた男子とは、性的不能に陥ってしまった少年たちである。どうしても薬が強すぎるために、副作用で生殖不能なペニスに変化してしまう者がいる。外の世界でもそうだし、施設内でも事情は変わらなかった。

 種がなくなるだけでなく、性欲そのものをまったく持たず、いくら刺激を加えても、すでに股間にはいっさいの快楽を感じない。もちろん、決して勃起することがない。性感神経が麻痺し、性的不能に陥るのである。

 回復の可能性はゼロではないものの、極めて低かった。大人になったところで、状況は変わりはしない。

 世間一般では、死亡または不能によって男の数は1対、女の数が20と大幅にアンバランスなものになっている。機関としてもなんとかしたいところではあるけれども、ステロイドを止めればすかさず、花粉の毒が命にかかわる脅威となる。

 生き延びた方が、経済的活動を行ってもらう意味でも、社会の安定性という意味でも重要なので、彼らはBクラスに移行して、生殖のプログラムから外されることになる。

 日を追うごとに、Bクラス編入男子は増えていく。Bクラスは男子のみで構成され、ただ学習と、職業訓練、あとは自由時間で、健康だけに気を配られる存在となった。

 彼らは生き延びることだけで己の価値を有意義なものとしなければならず、子孫を残すことができない代わりに、何らかの自己肯定感を醸成しなければならない。そのための心理訓練も、男子たちに課された。

 これらをとおして、不能になった少年たちは、生きていることの意義を実感し、こんな世の中であっても、自分は決して役立たずではなく、価値のある、存在意義のある自分でいられると確信を持つことができるのだった。

 Bクラスが増えるにしたがって、Aクラスでは、男女比がみるみる偏っていく。昨日まで一緒にいた男の子は、次の日からAクラスに来なくなるという状況が続いた。

 それが少女たちの不満を一気に高めて、フラストレーションを加速させていく。男子1人に対して女子は10人以上になってしまっていた。

 午前と午後のカリキュラムはほとんど変わらない。学習内容が高度化し、社会情勢の理解に関しても、言い方が難しくなるだけで、内容は同じだった。その代わりに、生殖の内容がより具体的に、なまなましいものとして伝えられる。

 それによって、Aクラスの男女は、生殖快感への期待感をいやがおうにも高め、とりわけ女子たちはそれが性衝動と直結して、股間をくすぐったく疼かせ、もんもんと欲情解消できぬさなかに置かれて、内股になりながらきゅうんと子宮から精を渇望するようになっていく。

 勃起可能、すなわち妊娠できる男性でさえあれば、実の親子や兄弟姉妹以外、機関を卒業した10歳以上の男女は全員セックスできることを具体例を交えて教えてくる。

 少女たちはとにもかくにも、誰であっても、何歳であっても、手近なところから、まずは性欲解消の道具にしようと、ひそかに強く心に誓っていた。世の中で姪とオジの性関係が大流行する源泉が、こういうところにあったのかも知れない。

 課外授業での訓練は、女子は同じプログラムをあえて適用することになっている。機械的な鉄棒振動、いわゆる角オナニー状態で、少女たちは我先にと絶頂を迎える、溜まっていた性衝動が一気に解消される、唯一の機会であった。

 全身を緩ませ、快楽に身を任せて、ひたすら気持ちよさを身に受けつつ、いかなる防御もせずにその性感を最大限全身に行き渡らせるよう、彼女たちは全裸で自分の胸板を撫でさすりながら、腰をくねらせて果てていった。

 一日のうちで、少女たちがイクことができたのは、ほとんどの場合、この一回きりだった。絶頂した女子は鉄棒を離れなければならず、立て続けにイクことが許されなかったのである。これも、精神を鍛える上では重要な教育プログラムだった。

 もっと……もう少し……!

 その恨みにも似た欲求不満は、1,2年後に受精可能な状態になったときに、一気に手近な男性に向かっていく原動力になっていく。この女子たちの共通認識が背景にあって、次世代を増やすきっかけを作りたいというのが、この世界のホンネでもある。

 あとは、いつもどおりのテクニックの訓練と、自分の肌を見せ、震える肉の質感を女性的魅力として見せつけるための“撮影”が加わる。

 脚を開いて、内股の肉やお尻のふるるんと震える質感を、弾力よく弾いて、自分の身体がいかに女性性を存分に有しているのかを、男たちに知らしめるためのテクニックが教育される。

 ただ脱いで胸や性器を露出しさえすれば良いのではなく、自分で揉むときにどれだけいやらしく魅せられるかが問われた。そのための手の動かし方、上目遣い、乳首をまさぐるときの指の滑らかな動きも、徐々に洗練されていく。

 男たちが、女体のどんなところに目を向けやすいかを教えられ、彼らを視覚だけで勃起に至らせるために必要なしぐさ、物腰、ポーズや、ゆっくりとしたストレッチの動き方などを徹底訓練する。これは後々存分に役立つことになる。

 逆立ちして開脚しながらオンナ表面をパンティから浮き上がらせるポージングや、それに必要な運動能力も、このときに鍛えられる。

 新体操やバレエの片足上げのポーズ、滑らかな動きをしなやかに演出する身体の動かし方や、胸および内股の強調手段、お尻を見せつけるタイミングなども習う。

 いわば、誘惑手段のバリエーションを数多く、的確に、意中の男性に見せつけることができれば、それだけセックスに至る確率が格段に上がる。少女たちはフラストレーションを抱えながらも、その撮影訓練には真剣に取り組んだ。

 一方、男子の方は、もう登り棒では満足できない。その代わりに、特殊な器具が、包茎の幼いペニスに装着された。硬い金属製だが、ペニスの左右をトング状の器具で挟み、ぎゅっと包み込む装置だった。

 包み込むといっても、硬い素材でできているので、圧迫感だけがあって、それだけでは性感神経を刺激することができない。むしろ長時間つけていれば、痛みさえ覚えかねない不快さだった。

 しかしながら、その器具がブルブルと大きく振動し、ぷるぷるぷるぷるとペニス先端だけを小刻みに揺さぶるように動き始めると、感覚は一変するのだった。

 さっきまで強く締めるちょっと痛い“拷問器具”が、一転して快楽一辺倒を醸し出す甘美なオモチャに早変わりした。

 男子たちはそれを外すことを許されない。手を後ろに組んだまま、その機械的な刺激をじっと受け入れるしかできなかった。

 この器具の特徴は、ペニスの皮を剥いたり傷つけたりせず、キツい締まりと硬い圧迫を加えながら、ぶるるっと延々振動することで、亀頭先端部分を性感刺激し、ぎゅんとくすぐったい快楽が一気にペニスの奥底前立腺まで、圧倒して押し寄せてくることだった。

 女子を意識するでもなく、登り棒を意識するわけでもなく、ただただ機械的自動的に、幼すぎるペニスが、くすぐったさとは完全に一線を画した快楽となって、先端部分に集中してブルブルブルブル心地よすぎる性感神経刺激になっていた。

 機械的信号が男の子の股間からお尻の奥に突き抜け、急激に全身へと拡がっていく強制的な快感を押し付けられて、彼らは大きく腰を引き、またくねらせながら、意味不明な性感刺激に悶絶してしまう。中には、倒れ込んで立てなくなる子供さえもいた。

 この強要的にすぎる快楽は、彼らの股間に、ある変化を及ぼした。勃起である。もっと学年が低い時期には味わうことのなかった感触によって、ペニスは海綿体を膨らませ、強く大きく劇的に反応してしまう。

 だがもちろん、その状態でも器具は取り外されない。しつこくしつこく振動刺激が続けられ、硬いのに心地よい快楽が、ちいさいのに硬く反り返ったペニスを直撃し続ける。

 そして……次から次へと、男子たちには想像も付かなかった感覚が、彼ら自身を襲っていく。1人、また1人と、ペニスはピクピクンと脈打ちを始める。そのとき、振動性感刺激が続けられる中で、ペニスの気持ちよさが急激に沸騰するのを、彼らは感じた。

 刺激は同じなのに、体内での反応だけが急変する。ペニスの快感がお尻の奥からきゅ~んといきなり強まって、それが股間全体をギュンと覆い尽くす感覚。数秒間それが始まっても、機械的な冷たい振動は続く。

 すると、その多幸感がおとずれて間もなく、ペニスは病気にでもなったかのような劇的な反応をする。

 勝手に、自分の意志と完全に無関係に、くすぐったすぎる気持ちよさのまっただ中で、ビクンビクンと強く脈打ったのである。数秒間、ペニス全体が律動し、どこまでもヒククンと心臓の鼓動のようにリズミカルに打ち震える。

 これが、男性の絶頂であり、絶頂直前の数秒間と、絶頂し脈打っている数秒間の、合わせて十秒ちょっとの瞬間こそが、男の股間でもっとも快感の強い瞬間であると、そのとき理論ではなく実体験として、少年たちは味わうことになる。

 以来、彼らは毎日、この冷たい感情のない器具に犯され、勃起から絶頂までをじっくりいたぶられながら味わい続ける。何の意味もない機械ごときに、ただ勃起させられ、無意味な絶頂へといざなわれていく刺激に、少年たちは逆らえなかった。

 精通が始まってもおらず、精液が出ない中で、教わっているのとは違う「異性ではない物体への射精」に気持ちよさを感じてしまうことが情けないのに、その振動刺激に抗うことができないのだった。

 そのうち、少年たちは、絶頂直前の多幸感が訪れたときに機械の振動が止まるよう特別にプログラムされた器具にチェンジされる。3年生も2ヶ月を過ごせば、そういう器具に変換された。

 すると、絶頂直前のあの最高にくすぐったい、ペニスが一番いい気持ちに勝手に陥った状態で、機械からの刺激が止まることになる。器具は軽い痛みを押し付けてくるだけで、何らの性感振動をも出していない状態だ。

 しかしそれにもかかわらず、ペニスの気持ちよさはいや増すように高まっていき、痛いはずの拷問器具に挟まれた状態の中で、絶頂の脈打ちを勝手に始めてしまうのだった。

 彼らは、ひとたびこの多幸感に陥ったなら、あとは何がどうなっても、ペニスは絶頂の律動を始めるものなのだということを、身体全体で思い知らされることになった。

 課外授業の後半は、男子たちはあるビデオを延々と見せられる。それは、クラスメイトや先輩卒業生たちが残していった、「撮影された動画」にほかならなかった。

 同じくらいの世代の少女たちが、パンティ一枚姿で、色々なポーズやしぐさ、ちょっとしたいやらしい動きをくり返し、カメラがそのやわらかそうなスベスベの肌をアップで映し出しているのを、じっくり間近で見せつけられ続けた。

 さっきの機械的な刺激と打って変わって、心の奥底からドキドキさせられるような、興奮に満ちたエロティックな動画の数々、女子の人数が多く、卒業生たちお姉ちゃんの身体も加わっているので、その数は何百時間にも及んだ。

 少年たちは日々追加されていく女子たちの気持ちよさそうな肌やお尻の出っ張り、内股生足のシコシコした質感を目の当たりにし続け、普段意識していなかった異性を、ここで改めて強く意識せざるを得なくなった。

 膨らんでもいない胸板は、拡大された撮影の中では、男子と完全に一線を画するもっちり吸いつく質感を具えていた。彼女たちの肩も背中も脇の下も、ツルツルで悩ましい。その膨らみと肉付きを残した腹部もあどけなくて魅力的だった。

 腰回りも臀部もぷっくりしていて、女の娘の胴体がこんなにやわらかそうなのを、ひしゃげる身体の動きとともに思い知らされる。

 何より、少女たちの生足が間近で撮影され、内股の肉が指で弾かれてプルルンと震える瞬間が訪れる度に、男の子たちはその素足に釘付けになった。

 脚も胸も尻も、成長につれてもっともっと、いやらしく女性的に成熟していくことを、性教育で知っているので、男子たちはその期待感も込めて、少女たちの半裸をじっくり見続ける。

 ただし、自慰行為はもちろん禁止だ。それに先ほど、無機質な物体にペニスを律動させたばかりでもあり、彼女たちの肢体を目の当たりにして辛抱たまらないという少年は出なかった。

 だが、彼らの脳裏には、同世代少女たちのきわどい肌や肉質が焼き付いて離れず、イッたばかりのペニスを再び隆起させる子もいた。そのくらいに動画は洗練されていやらしい仕上がりになっていた。

 この学年の男女の本領が発揮されるのは、夜の入浴時だった。

 小学校に上がる前は機関の人間が身体を洗っていたが、学年が上がると自分で入浴するようになっている。

 浴場は1~2年生用が男女別で、監視員以外の大人はいない。しかしながら3年生以降は混浴となり、希望者には無痛レーザー毛抜き機も貸与される。これは首から下の毛を全自動で毛根から処理するマシーンだ。

 男子は夕方に一回抜かれているが、薬の効果もあり、再勃起できる状態になっている。

 ただ、性欲は、一度機械的にイかされているせいも手伝って、さのみ強いというわけでもなく、すぐそばに異性の裸があっても、意識こそすれ、強く情欲を掻き立てるということがあまりない。

 つまり、男の子のサイドから積極的に、女子たちに襲いかかることはまったくないのだった。

 しかしそれとはまったく逆に、女子の方はもんもんとしっぱなしで、確かに機械に一度絶頂させられているけれども、まだまだまだまだ、物足りない不完全燃焼感がきわめて強く残っているままだった。

 彼女たちにとって、挿入もオナニーも禁じられた中で、この入浴時間こそが、最大限のチャンスなのであった。

 さっきまで、動画で誘惑してきた少女たちが、いまやそのパンツさえも脱ぎ捨てて、オンナ表面を丸出しにして全身や頭を洗っている。その生足を間近で見ながら、少年たちも体を洗う。

 少女たちはセックスにまつわる話をどんどん仕掛けてきて、絶頂の気持ちよさについて語り、同意を得ようとしてくる。そして、いかに自分が満足し切れていないかを、彼らに脚を開きながら語り尽くすのである。

 男子たちはそんな女の子のあられもない姿を見て、機械的な電動刺激とは根本的に異なる、やわらかで肉厚で、どこまでも深く包み込んでくれそうな、女の身体というものの不可思議な美しさと淫靡さに、改めて感嘆し、メカで絶頂してしまうのではなく、本物の、なまみの肉体で律動してみたいと強く思うようになっていく。

 だが、ことはそう簡単ではなかった。

 監視の者が複数いて、目を光らせている。未熟な身体での本番挿入は御法度である。それは将来の受胎に悪影響を及ぼしかねなかった。しかし一方で、男女は仲睦まじく、できるだけ両性どうしで情欲を掻き立てて欲しいところでもある。

 その矛盾した状態を解消するため、下記の4つの手順を踏んで、男女は快楽を共有できるルールにした。あくまで挿入はNGで、疑似体験的な肉体のこすりあわせが許される格好だ。

 その手順とは、「スマタ勃起」「あわおどり」「あかすり」「浴槽貝合わせ」で、それ以外、つまり挿入やクンニ、フェラチオなどは許されていなかった。

 まず、女子の身体に興味津々で、しかし精通前のペニスは一度機械的にイかされた状態という、非常に中途半端な状態でのスタートとなる。

 これだけでも女子にとってはとても不利だった。そこで彼女たちは、同じくらいの背格好、なんなら自分の方が背が高いような、未熟な男の子の前に立ち、包茎ペニスを生足の間にきゅっと挟み込む。

「ぅあ……やわらかい……ねっ……」
「女の子の脚、いいでしょう?」

 すりっすりっと左右の足をずらしながら、少女の生足がじかにペニスをこすれていき、彼女たちが腰を前後にくねらせれば、オンナ表面が時折、ペニスをこすれていくこともある。

 そのやわらかな刺激は、あの器具の機械的振動よりもはるかに劣るものであったが、心の奥底に響いてくるような、温かくてやわらかな肉の感触が、内股のフニニッとした弾力が、じわっとペニスを包み込んで、優しくこすれてくるのが格別だった。

 少年たちは、女子の肢体がやわらかで甘美なことを再認識させられ、さらに興奮を高める。だが、監視員たちの計算どおり、それだけで勃起や絶頂を誘えるほど、甘い世界ではなかった。

 シコシコもっちり弾力の素足を獲得するには、3,4年生女子ではいかんせん力量不足だった。そこまで肉体の発達が追いついておらず、知識とテクニックだけが先走ってしまっている。

 そのため、生足の吸いつく感触は見た目だけで、実際にその細くて短い脚は、ただやわらかな脚というだけで、女性的な特有の感触までは、まだ具えていない子が多いのだ。

 結果、男子たちは内心、期待外れ感を持つ。思ったほどではないと、少しばかりガッカリしてしまう。まだまだこれからだということも、性教育によって知っているので、やはり同級生たちや一個上の小娘では、そうそう簡単に性欲対象にしがたいのが実情だ。

 本来ならペニスを内股で挟み込む刺激は、男たちを狂わせ、性欲の虜に持ち込むほどの快楽であるはずだが、その武器となるための性徴を、彼女たちはまだ獲得していなかった。

 もし、男の子の内股にペニスを挟まれたとしても、同じくらいの感触にすぎないだろう。それが分かっているから、男子たちは、やや期待外れと思わずにいられないのである。

 少女たちもまた、自分の生足が未熟すぎることも分かっていた。段階はこれからだ。

 第2段階として、「あわおどり」が始まる。石鹸を全身に塗りたくり、男子の上で滑らせるのである。

 確かにちょっとだけ、男の子よりも、肌の質感が優れていて、もっちり吸いつく感覚が、ソープのぬめりでアップし、ズリュズリュと上半身がこすれる感触は、心地の良いものであった。

 たいていの男子が、このスマタかあわおどりの段階で、半勃ちから全勃ちになっていく。ビデオで見て憧れた女体が、稚さ過ぎて期待どおりではないにしても、じかに自分の身体を滑っており、その震える生足の感触を味わえている喜びが、男の性器を興奮させた。

 だがそれでも、受胎能力獲得前の肢体は、見た目はとても良く、オンナのタテスジもどこまでも魅力的でありながら、実際に抱かれた感覚としては、見たほどではない、というのが正直なところだった。

 なまで抱かれた感覚は、目で見たよりも劣る。これが期待どおり、否むしろ期待以上の絶好の感触を具えるには、やはり10歳の壁を越える必要があることを、男女ともに思い知らされる。

 第三段階の「あかすり」は、椅子に座った女子の全身を、男子が手でこすり、撫でさすって悦ばせる儀式である。

 垢擦りと銘打っているものの、垢をコスリ出すのではなく、あくまで優しく撫でさすって、少女たちの全身の性感神経を、男の子の両手で刺激する役割があった。

 しかのみならず、男子の側も、少女のすべらかな肌と、あと少し成長しさえすればみずみずしく吸いつく感触になるであろう全身を、じかに両手で感じ取ることで、どうにか興奮を高める効果もある。

 決まりによって椅子に座った女子を撫でる、オンナ表面をこすっても構わないが指を入れてはいけないなどの厳格さが邪魔して、男の子たちは、彼女たちのもっちり膨らんだ女らしい臀部を撫でることも揉むこともできなかった。

 唯一女らしい膨らみをたたえた器官は、椅子によって邪魔されてしまっているのだった。せいぜい、男の子と決定的に違うオンナのツルツルワレメをこすり、そのハリのあるめずらしい器官の感触を指先で感じ取ることで、やはり異性を触っているのだという実感を湧かせるに留める。

 その実感が少女たちにとっては極めて重要だった。男子たちはクリトリスの位置や感じやすい乳首などを学んでいるため、指をねじ込んではならないものの、オンナ表面を愛撫することができ、彼女たちが感じやすい胸板のポイントを探り当てることもできた。

 それらに集中して手を動かし続けることで、女子たちは性感の悦びに打ち震え、イクかイかないかの瀬戸際に近い興奮を感じた。

 その結果、最終段階に入る。女子の人数が多いのに対して男子はごくわずか。しかしながら、これらの段階で1人の男子が相手にできるのは1人まで。数人がかりで男の子を弄んではいけない。

 役割を担えない娘の方が多く、本当に女余りなのだということを身をもって思い知らされる。

 1対1に限定されることで、多くの少女たちが、日に二回目の、満足のいく絶頂を迎えることなく、悶々とフラストレーションを溜め込んで、明日こそは自分がという決意を強くする。

 その決意の積み重ねが、卒業後に現実の男性に向けられていくことになるのだが。

 最終段階は「貝合わせ」だ。浴槽内で、男女とも脚を開き、腰を突き出して、お互いの性器をこすり合わせる。ペニスは未熟なオンナ表面の小さなスジにあてがわれ、縦方向にズリズリこすられる。

 女子の側も腰をくねらせぐにぐに上下させて、必死にペニスの棒で自分のスジや突起をこすり立てて、性感の刺激に我を忘れた。

 湯船の中なので、10分も15分も浸かっていられない上、水中のため動きが鈍いという制約を受けるが、周囲の女子たちに見守られながら、挿入直前の、オンナ表面ホットドッグ状態でこすり合わせる遊びが、必死にクニクニ続けられた。

 男子以上に、女子の方が必死だった。執拗に、グイグイ迫るように、オンナ表面がやわらかにペニスをこすり立てる!

 剥けるはずのない小さな男根は、じかにオンナ表面のやわらかい感触でしごかれ、亀頭先端がクリにしっかり当たり続ける状況の中で、硬さを増していく。

 少女の方は、性感神経を最大限感じ取ろうと興奮し、ペニスのこすれる刺激に酔いしれて、すぐにでも絶頂しようとあがく。

 とことんまで性欲を溜め込んでいながらその発散ができない中で、じかにペニスが自分のオンナ表面と感じやすいクリをこすっていることに、女の娘は感極まる。

 性行為の心地よさと、消えゆくストレス、全身を満たしていくカタルシスと、女体が感じ入っていることがこれほどに熱烈に自分を満たすのかと驚かされる多幸感……これらが渾然一体となって、幼い娘の全身を一気に高めた。

 こうした行為の一連こそが、少女たちをして、性欲の塊に変え、さらに卒業後の性衝動に彼女たちを駆り立てる原動力になっている。その結果、若娘たちは機会あらばとことんまで、できるだけ多く、チャンスと人数を増やして、妊娠しようと息巻くことになる。

「ひゃぅゎ!!!」

 女の娘が松葉崩しの体勢で、男根の表面をこすれる感触でイッてしまう。それから程なくして、ペニスもピククンと二回目の絶頂を迎えた。

 まだ精液は、出ない。

 男女が自分の腰使いで、相手の絶頂を吸い出すために、前の3段階の手続きを踏む必要があった。

 男子が律動するために、足で挟まれ、上半身をこすられ、女子の全身を撫でさすって興奮させられる必要があったし、女子の方も、全身愛撫までで感極まって、貝合わせの段階で、2,3分でアクメに陥る準備が整ってしまう。

 計算どおり、子供たちはほぼ同時にイク。これで男子はさらに、異性の肉体に強い興味と興奮を覚えることになる。女体への関心は刷り込みとなって、彼が成長した跡も、異性の誘いに容易に応じる思考に変えられてしまう。

 女子たちもさらに、男を欲しがり、ペニスを欲しがり、満たされ切れないフラストレーションを抱え込んで、隙あらば妊娠しようとする性向に、徹底改造されていく。

 少年少女たちはいよいよ、10歳の境目を迎える年齢にまで成長する。精神的にも肉体的にも、ひとつの門目となる。夭折防止機関は10歳までの面倒を一律に見るが、その卒業タイミングも間近に迫ってきている。

 まず、Bクラスにいた男子は一律に、学年の切り替わりとともに一斉卒業となる。残るAクラスの男女たちも、切り替わり当日に卒業を迎える早熟な子もいれば、遅くても3~4ヶ月あれば、全員が卒業に至ることができた。

 5年生となるこの学年の男女は、高度な勉学は継続しながらも、卒業を目指して最終段階に入っている。彼らの卒業条件は、いたってシンプルなものである。

 男子の卒業条件は、精通ができたかどうかだ。

 浴室での貝合わせがなくなるとともに、寝る前の女体ビデオをたっぷり見せられ、オナニーを禁じられた状態で、器具による責めもなくなり、絶頂の機会を失う一方、薬剤をしっかり与えられ、性欲はギンギンに高まっている。

 そんな中で床につけば、大勢の男子が確実に夢精してしまう。数日もあれば、彼らは夢の中で女子たちに抱かれ、そのままペニスを律動させてしまう。

 そのとき、精液がきちんと放出された状態で朝を迎えることができれば、そのまま卒業通過儀礼に入れる。

 薬剤の影響で、9割以上の男子は、10歳になった頃合いには、夢精による精通を確認できる。4ヶ月はかからないだろう。ほとんど全員が、1ヶ月ちょっとで卒業していく。

 一方、女子の卒業条件は、受胎可能かどうかで決まる。これには性徴の個人差があるので、どうしてもばらつきが出る。

 それでも4ヶ月もあれば、無事、彼女たちの子宮は精を受け止められるレベルに達し、その肉体も急激に女性的なツヤのある肌触りへと変貌する。月経も始まり、スキャンで胎内を調べられて、受胎要件を満たしさえすれば良い。

 その段階で女子たちも、卒業通過儀礼を迎えることができる。

 その儀礼は、彼ら彼女たちが待ちに待ち望んだ行為であった。

 本番のセックスが、ここでやっと、ようやく認められるのである。

 卒業を迎える女子たちは、数少ない男子たちと、機関の教員事務員男性たちとを相手に、次々と待ちわびた性交挿入を遂げる。なまでホンモノの肉の棒を受け入れ、子供から大人まで、様々なペニスを味わうことが、初めて許される。

 もんもんと高められ溜まっていた欲求不満を一気に爆発させるように、彼女たちはペニスを次々むさぼり飲み込んでいった。様々な体位で、色々な年代のペニスを身に受け、自分がイクまで何度でも相手を射精させ続ける。

 滑らかでもっちりしたみずみずしさをたたえた生足や臀部が、男たちをいきり勃たせ、太まった棒はすぐさま、少女たちの膣内でしごき立てられる。

 卒業する女子が100人いたとしても、その場で相手ができる男子が15~20名弱、あとは数少ない大人の男性だけであり、男1人につき少女は5~10人くらいの割合になる。

 精通しさえすれば男子は通過儀礼たる本番行為に臨めるけれども、もともと人数が少ない上、夢精できた男子の割合というのも限られている。

 おとなの職員たちは毎日のように、通過儀礼に参加させられ、その精を少女たちの中に放出させられているけれども、それでも絶対数を十分に満たすほど用意はできない。

 その結果、1人の男子または男性は、一晩で数名以上の女子を絶頂まで相手し続けなければならなくなる。何度射精しようとも、彼女たちがイクまで宴は終わらない。

 少女たちの方も、快楽の赴くままに腰を使い続け、自分がイキ果てる瞬間を楽しみに、忠実に性感を受け入れて高められては行くけれども、彼女たちが満足しきる前に、たいてい2回以上は、男の方が参ってしまってペニスを脈打たせてしまう。

 単純計算でも、一晩で男は10回近く精を吐き出す。それでも大勢の10歳女児たちがイクまでは付き合わされることになる。

 少女の未熟ながら、子供だけによく締まる狭い膣圧に負け、老いも若きも関係なく、何本ものペニスから白濁液が吸い上げられていく。

 下腹部と生足の滑っていく感触が心地よすぎ、彼女たちの女らしいお尻の膨らみにほだされ、ペニスは一秒も休まず、誰かの膣内に入った状態が何時間も続けられるのだ。これで射精を我慢できる道理はなかった。

 それでも、その場にいる卒業女子全員が満足するまで、通過儀礼としての生殖行為は終わらなかった。

 少年たちは音を上げ、何度も精を吐き出しては勝手に回復してしまって、次から次へと別の少女のオンナに挿入させられ、空気中に晒されているペニスが一本たりとも残っていないように、ギュウギュウとやわらかな締まりを伴って肉厚なオンナに包み込まれては、ズリュズリュしごきまくられ続ける。

 おとなの男性たちでさえも、女の娘の貪欲にして快楽に満ちた性器の感触には勝てず、次々と精液を奪われていくけれども、彼らも、少女たち全員が絶頂するまで解放されることはなかった。

 教職員たちも疲労困憊するけれども、薬を飲んで次の日も、別の女子たちの卒業儀式に付き合わされることになる。

 少年たちはその晩しこたま射精させられたあとに卒業し、施設を去ることになるけれども、職員たちは毎日、別の5年女子たちを抱き続け、彼女たちの稚い膣圧にひっきりなしに犯されては、次々と精液を吐き出す夜を過ごし続けた。

 これもまた、彼らの大切な仕事と位置づけられているので、夭折防止機関に就職できる男性の条件も、健康で絶倫で着床可能と厳しいものがあった。その分報酬は非常に高く、人気の職業でもあり続けた。

 毎晩精根尽き果てるまで女児性器に絞り取られるので、日中、子供すぎる男女が棒などで性欲の刺激に喘ぎ、女の娘たちのいやらしい動画を見続け、性教育を施し続けても、彼らは女子たちに欲情することはなかった。

 その分、受胎可能な娘たちに、毎晩嫌というほど絞り尽くされているため、日中の回復期間は、冷静に対応できたし、入浴時の裸の男女たちやその営みを間近で見ても、ペニスを反応させることなく、厳格に対応できる道理だった。

 その直後に始まる通過儀礼が、精力の全てを奪い尽くしていたので、万一幼い男女に性感の劣情を抱いた職員がいても、その分は通過儀礼中にこれでもかと精を吸い上げられることで、強制的に解消させられることになる。

 こうして、稚かった男女は性交可能な年代となり、女子たちは大量の精液を蓄えた状態で卒業していくし、男子たちも女性器の良さを悪夢にうなされかねないほど、一晩で何人もたっぷりと吸い尽くされて卒業していく。

 それでもその一晩で妊娠に至る女子は、ごくごく一握りにすぎない。世に出てから、毎日のように男を漁らなければ、性欲の疼きは解消されず、妊娠もできない。そして、その相手は厳しい世間の希少な男子となって、なかなか巡り会うチャンスを得られやしない。

 また男子たちは、主に年上の少女やお姉さんたちにめざとく見つけ出され、誘惑されて快感行為に及び、毎晩何人もの膣内に精を奪われ続ける人生を送ることとなる。

 ここまでしなければ、妊娠率が低下しきっている現状を打破できないのだ。

 ただでさえ、夭折防止機関を卒業していない、花粉の猛威の前に大人になってしまった女性たち、20代後半や30代女性たちの多くが、妊娠を諦めてしまっている。

 諦めない女性ももちろん少なからずいたが、この状況で達観し、「別に子供を産まなくてもいいや」と軽々しく考え、世の中がどうなろうと知ったこっちゃないと決め込んで生活している。

 積極的に誘惑しようという傾向は、年代が上がるほど顕著に下がっている。アンケートでも実際の行動でも、露骨に差が出てしまっていた。生殖の低年齢化が避けられない。

 まだまだ産めるはずのお姉さんたちが、冷めた視線で、自分の目先の生活だけを充実させようとし、性欲がずいぶんと希薄になっている。半数ほどがそのような思考を、依然として保ってしまっていた。

 それが次世代ピンチにさらに拍車をかけているのが現状である。

 活躍するのは、10歳以降の、20代前半くらいまでの若い女子たちであり、彼女たちは次から次へと生殖相手を見つけ、誘惑しては行為に及び、男たちからどんどん精を吸い取って、着床に成功している。

 精子を膣内に受け取っても着床に至れるかどうか分からないのが、この花粉対症薬の厄介なところなのだが、少女たちは機会を増やすことによって、この弱点を補っているようだった。

 おとなのレディたちも、半分弱は少女たちに交ざって生殖行動に正直になり、積極的な行動をするが、そういう行動を取る女性たちもまた、いつしかは妊娠に成功し、夭折防止機関に子供を預ける身となった。

 養育の手間もお金も不要なため、彼女たちはそのまま仕事も趣味も、元の日常に戻れた。その気になれば、誰でもそうすることができたし、超少子化のピンチも乗り切れるはずだった。

 だが大半の大人は冷めている。多感な若娘だけが色めきだっている。そのギャップは、どうしても……医療上のリスクに直結せざるを得ない。

 10歳の若さで出産することは、21世紀半ばにおいてさえ、多くの危険を伴っている。子供の命も健康も脅かされる。遺伝的な問題もあった。実の兄や弟、父親を相手にすることはまれではあったがゼロでもない。

 しかしながら、オジや親類に当たる男は、真っ先にターゲットにされた。

 女余りが深刻すぎる中、彼女たちは手近な親類に目をつけ、姪という若い肢体を武器に、オジに当たる人物の精を吸い取ることが圧倒的に多くなった。その結果、血縁の近しいものの交配が全国で進み、社会問題になりつつある。

 近親相姦の最大のリスクは、その奇形性にあるのではない。多少遺伝上のそういうリスクはあるけれども、それが決定打になるとも限らなかった。

 くり返せばリスクが上がる、という程度であり、オジと姪の間柄くらいでは、深刻なダメージになりにくい。そんなことよりもはるかに深刻なのは、その社会的な閉鎖性にある。

 血縁が近すぎるもの、例えば兄と妹が子をもうけたとして、「夫婦」の仲が決定的に壊れたとしても、「血縁」は残る。兄は兄のまま、妹は妹のまま、つながりは保たざるを得ない。

 その社会的な閉塞感が、人間関係に深刻なダメージを与える。殺戮に発展しかねないほど憎いのに、血縁としてつながりだけは保たれてしまって、ことあるごとに血縁が持ち出され、死ぬほど憎たらしくなった間柄なのに付き合いが生じてしまう。

 それは悲惨で閉ざされた、絶望的な人間関係を織りなすであろう。また、他者と交わる機会がさらに希薄になり、親類一族だけで完結してしまって、社会的に開かれた、外部性、ダイバーシティも、近親配は損なってしまう。異端思考は排除されやすくなるだろう。

 自然の摂理上、そうした閉鎖的で息の詰まる人間関係のさなかに何世代も置かれ続ければ、それは奇形のリスクも上がる道理だ。順序が逆なのだと思う。

 施設を出た少女たちは、真っ先に血筋の近い者がいたらその男を狙う。そのくらい、他の男に出会う機会が絶望的に断たれている証でもあった。

 だがしかし、姪が妊娠するというケースが急増したことによって、親戚内部で自己完結してしまう閉鎖社会性がどんどん深刻になっていっているのを、政府首脳は感じ取っていた。

 これは先々、さらに深刻な、悪い社会現象を引き起こすに違いない。なんとか、なんとかしなければ……。

 たしかに、妊娠の機会は徐々に増え続け、人口の急減にも歯止めがかかり、次世代の子供が誕生する人数も、増加傾向にある。だが、一方で、かかる閉鎖的”姪”問題が、新たな壁として、世の中に立ちはだかり始めていた。

 ”つねにプラスの状態で「最終決着」することは決してない。何かが好転し、解決したならば、次の壁、新しい課題が、のっぴきならない深刻な形で、我々の前に突きつけられる。それを超えてこそさらなるプラスになるのであり、不幸や悲惨は絶対になくなりはしない。”

 夭折防止機関が子供たちに常日頃教え続けたこと。それは実際に、この社会を本当に覆い尽くしている。

 妊婦の多くが姪である。

 姪は、男たちを誘惑し、籠絡し、その精をたっぷりと体内に溜め込んでくる。彼女たちは、オジに対して、性的に侵蝕してくる。

 その若く甘美な肉体は、どこまでも男根を狂わせ、一滴残らず生殖細胞を奪い尽くす魅力に満ちあふれている。それだからこそ、姪は、社会全体へと侵蝕し続ける。彼らが次に立ち向かわなければならない課題、新しい壁となって、この侵蝕に抗う必要がありそうだ。

 あらゆる問題の最終決着は、人生にも世界にも、決してない。しかしそれは、次のさらなるプラスを生み出すであろう。

 彼らは、侵蝕してくる姪の誘惑に、どれだけ抗えるというのだろうか……。



~侵蝕してくる姪の誘惑 全編完結~


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