丑三つ時。
夜空を見上げていた侍は、天を仰いだまま唐突に口を開いた。
「このような夜更けに出歩くとは感心できんな」
さらりと流れる長い髪。
振り返れば―――――そこに、銀色の少女の姿があった。
銀色の少女、弓兵は不服そうに顔を曇らせ侍に告げる。
「何を。夜こそ、私たちの時間だろう?」
「悪いことは言わぬ。早く騎士王の傍らに帰った方がいいのではないかな。不意に目を覚まして隣に寝ているはずの者がいないとなれば、慌てふためくのが道理だろう」
「……彼女は、よく眠っているさ。きちんと確かめてきた」
「どうかな」
涼しげに笑んだ侍は丸く大きく輝く月から視線を外すとようやく弓兵に目線を合わせた。どこかからかうような口調に、弓兵はますます不服そうな顔をする。
「そのような顔をするものではない。せっかくの美貌が台無しだ」
「美…………君は、そんなことを言う男だったのか?」
「さてな。戯れでふと言ってみたくなったのかもしれぬ」
石段に腰かける弓兵。その姿が闇に沈んでいくと共に、纏っていた透けるような面積の狭い夜着が赤い武装へと変わる。
侍は、それを見ておやおやとつぶやいた。
「似合っていたのに。もったいないことをする」
「生憎と私にはそういう趣味はないのでな」
「魔女に付き合ってみるのも悪くはないと思うぞ? あれでなかなか楽しい性格をしている故に」
「冗談を」
さて、冗談ではないのだがなと首を捻る侍に半眼を投げ、弓兵はため息をついた。夜を震わせる悩ましいその吐息に、しかし魅せられる者はいない。蟲惑的なそれは月光の下に彩られて、なんとも麗しい様を見せていたのに。
遥か遠くに、それでもしっかりと人ならぬ身であればこそ目視できる石段の終わり。それを見下ろして弓兵はまたため息をつく。
「キャスターは……いつ夢から覚めるのだろうか」
「問われてもわからぬよ弓兵。だがこれまでが不幸であった身、多少は報われても良いのではないかな」
「セイバーや私を巻きこんででも?」
鋼色の瞳がまっすぐ侍を見つめる。華奢な矮躯に似合わぬ力強さを持ったまなざしに侍は動じず片眉をゆるりと上げて、笑う。
「でも、だ」
「―――――」
剣の切っ先のような色は急激に力を失った。あきらめにも似たものを代わりに宿して、弓兵は三度目のため息をつく。
それに乗るように侍の笑い声が夜を渡って行った。
「…………。マスターの幸福は、君の幸福だとでも? アサシン」
「思っているような殊勝な身ではない。ただ、停滞の中に長らく住まっていた私としてはここ数日の変化が思いの他楽しくてな」
どうやら俗からは抜けられぬようだ。
つぶやいて、侍は肩を揺らす。
「そして、この山門の縛りからもおそらくは」
「それだ。何故、その身を不本意に縛り付けられて彼女に反感を持たない? 刃向かえとは言わない、せめて恨むくらいのあがきがあってもいいのではないか?」
「弓兵」
ぽつり、こぼすように名を呼ばれて弓兵は問いに乗りだしていた上半身を強張らせる。急に自らが対面した刃の鋭さを思いだしたように。
「……何かな」
「月が美しい夜だ。殺伐としたつまらぬ話などやめて、もっと楽しい話でもしようではないか」
「は?」
刃が。
半ばから、ぱっきりと折れたのを間近に見たように、弓兵はその鋼色の瞳を丸く見開く。
忙しなく瞬く長い睫毛に縁取られたそれを弄ぶかのごとく流し目で答えて、侍はあくまでも笑む。余裕綽々、といった風に。
「楽しい?」
「楽しい話だ」
「……目は」
「覚めているとも。可憐な小鳥を前に船を漕ぐわけにもいくまい?」
「ああ。ああ、君、いや、なんだ。……その、…………」
「どうした?」
「いや。何でもない。ただ自分の中の認識を改めていただけだ」
「あっぷでーと中というわけか」
「…………。君、もしかしてすべてわかっていて?」
「何のことかな」
「まさか女狐の飼っている侍までもが狐だとは……」
「狐狸の類いと一緒にするとは失礼な。まあ……否定はせぬが」
「してくれ」
頼むから、と小声で返して弓兵はなだらかな肩を落とす。そしてまったく今回の聖杯戦争は獅子狗狐狸と獣だらけかとまさに侍が喩えたごとく小鳥のような声色で乱雑にさえずった。
それを見て侍が呵呵大笑する。もはや雅からは大幅にかけ離れたその様子に、弓兵は不平を唱えようともしない。
「いやいや。なかなか喩えて上手いことを言う」
「褒められたくて言ったのではなかったのだがな。……もういい。私の負けだ」
投げだされた足、褐色の、細く引き締まった。天を仰いでもうどうにでもなれと言わんばかりにため息をついた弓兵はまぶしそうに目を細める。
「どうした?」
「……いや。今夜は月がやけに大きいのだと、な。君の言うとおりだよ」
うつくしい、とこぼしてまたため息をつく。わずかに目元が赤い。
酔ったかのようなその色に、侍はわずかに笑んだだけだった。
「鳥目に夜はつらかろう。今夜は羽根を休めて眠るがいい。―――――また、朝になれば騒がしくなるのだから」
「そうしよう。そろそろ彼女も察するところだ」
立ち上がり再び夜着へと変じながら弓兵も緩く笑っていた。
それではとつぶやいて境内へと足を向ける。
その背に侍はなにげなく声を放った。
「短い時だったがなかなか楽しかった。礼を言おう」
「こちらこそ」
力の抜けたその返事に、侍は意外そうに眉を上げるとくつり、と笑ってみせる。
そうして、丑三つ時の闇に溶けた。



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