静かな空間。
そこかしこに本が積み上げられた部屋の中には、ふたつの存在があった。
壁に寄りかかり―――――文庫本を読む長身の美女、ライダー。一方は小柄な少女。手にはたきを持ち、黙々と掃除をしている。彼女、いや……元は“彼”であったその名は、アーチャーといった。
天性の家事スキルを持ったアーチャーは今日もまた自ら進んでそれぞれの部屋を掃除して回っていた。セイバー、遠坂凛、間桐桜。衛宮士郎は飛ばして、今はライダーの部屋を掃除中というわけだ。
はたきをかけながらアーチャーは思う。こう静かであると楽でいい。セイバーや凛たちが話しかけてくるのは悪いことではないのだけど、掃除にはどうせなら集中して取りかかりたい。その点ライダーは理想の相手だ。黙々と本を読み続けてくれていて、余計な詮索もなにもしてこない。干渉せず。いや、まったく快適だ。
気が乗ってきたので軽く鼻歌など歌いつつ、アーチャーは掃除に励む。だから、だったのだろうか。
「……アーチャー」
「っ!?」
背後に立ちつくす、その存在に気づけなかったのは。
「ラ、ライダー、君、いつの間に……!」
慌てて彼女の方へ向き直り、アーチャーは問う。てっきり読書に没頭しているはずだと思ったのに知らぬ間に背後に立たれていた。こう言っては悪いがライダーは女性としては少々大柄で、女性化してしまってからはすっかり小柄になったアーチャーはその長身に威圧感を感じる。
不覚にもどきどきと高鳴る心臓を抑え答えを待つ。ライダーは魔眼封じの眼鏡の奥から、独特な瞳孔を持った瞳でじっ、と見つめてくる。
「わたし、小さき者は少々苦手なのですが―――――」
突然語り始めたライダーに、アーチャーはただただ瞠目するばかりだ。
「なのですが、可愛らしい小動物は好きなのです」
「……それは、なんだか矛盾してはいないだろうか」
「そうかもしれません。ですが、真実ですので」
「はあ…………」
会話が途切れる。
一体何が言いたいのか、眉を寄せてライダーを上目遣いに見上げたアーチャーは再び問う。
「ライダー?」
その肩を、ぐい、と押さえつけられてアーチャーは目を丸くした。
「……アーチャー。あなたは、とても可愛らしい」
「な、に?」
「毎日せっせと働くその姿。健気で……こう、胸がきゅんとするのです」
「ちょっと待てライダー。君、なにを」
「アーチャー、お願いがあります」
眼鏡の奥の瞳がきらりと輝いた。と同時に、肩を押さえる手にさらに力がかけられる。
「ひとくちだけ。ひとくちだけでいいので、あなたの血を、吸わせてください」
沈黙。
「えっ…………えええええっ!?」
「業というものなのでしょうか。恥ずかしながらわたし可愛らしい者を見るとつい、その血の味を確かめたくてたまらなくなってしまうのです」
「落ち着け! 落ち着くんだライダー! 桜に吸血は止められているはずだろう!」
「そうなのですが……禁止されていると、何故か欲望というのは暴走してしまうものでして……」
頬を赤く染めて熱っぽく語るライダー。何とか脱出を図ろうとするアーチャーだったが、スキル・怪力は伊達ではない。筋力Dでは何の役にも立たぬ。だんだんと迫ってくるその迫力にたじろぎながらもアーチャーは必死にライダーを説得しようとした。
「いいかライダー、その、君の欲望というのは単なる気の迷いだ、幻想に過ぎん。よりによって私が可愛らしいなどと……」
「いいえアーチャー、あなたは可愛らしい。サクラやアヤコに感じるのと同じ胸のときめきを今まさにわたしは感じています」
「さ、桜と私を一緒にしてもらっては困る! 彼女は君の大切な存在だろう? 何物にも変えがたい大事な存在なはずだ! そんな彼女を悲しませるようなことをしては……」
「あなたが黙っていてくれれば大丈夫です。こうなったらあきらめて、おとなしく共犯者となってください。アーチャー」
「私は完全に一方的な被害者だと思うが!?」
ああ悲しきは筋力D。怪力の前にはなんて紙装甲。息も荒く、焦点を失いかけた瞳でアーチャーを見つめながら力をかけてその体を拘束していくライダー。気のせいか髪もうねり、褐色の肌へと伸びだしているような。
唇から艶めかしく赤い舌が覗き、ゆっくりとなめずる。興奮して唇が乾いたのだろうか。
「大丈夫、痛くはしません。優しく愛してあげましょう。きっとこの世のものとは思えない夢心地を味わえますよ……」
「そういう問題ではなくっ! 正気に戻れライダー、取り返しがつかなくなる前に―――――!」
「ふふ、もう駄目です。こうなった私を止められる者は存在しませんよ。さあ私に身を委ねて、そのしなやかな首筋を……」
「ふうん。本当に存在しないのかしら、ライダー?」
「ええ、しませんとも。どんな手段を取ろうとも私は屈しません。こんなに甘い匂いを目の前に身を引くだなんてこと、出来るはずが」
と、そこでライダーがふと動きを止めた。どこか虚を突かれたようなきょとんとした表情。そんな彼女に、さらに“声”が言い募る。
「ねえ、約束したはずよね、ライダー。むやみやたらに血を吸ったりなんかしたら駄目よって。わたしと約束したわよね、ライダー?」
ライダーの顔色が変わる。興奮に紅潮していた顔は一気に青ざめ、だらだらと冷や汗が流れだす。その背後から、彼女を押し潰すように放たれる黒い気配。どこまでもどこまでも底がなく、隙もない。
アーチャーは目を丸くして“それ”の姿を見た。
「……桜」
「うふふ、こんにちはアーチャーさん。お掃除ご苦労様です」
にっこりと首をかしげて微笑む桜。だがしかしその笑顔は、目だけが笑っていないという表情の見本のようなものだった。
ずずずずず、と闇が胎動する。微笑んだままの桜は部屋の入り口に立ってライダーを見据えている。
「逃げ場はないわよ? ライダー」
先回りして言われ、びくりと体を震わせるライダー。大柄であるはずのその体が―――――今は、かわいそうなくらい縮こまっている。
「あ、あの、サクラ、そのですね、これには、事情が」
「問答無用」
やわらかな声で、しかしはっきりと桜は告げた。地獄の宣告にぶるぶると震えていたライダーは、さながら石像のように固まる。
己の技であるブレーカー・ゴルゴーンにとても良く似たそれをまともに喰らってしまったのが、彼女の不幸であった。
ずぞぞぞぞぞぞ。
「あッ、やめ、サクラッ、そこは……ああ、それだけは許してください……!」
「だ・あ・め」
瞬く間に例のシマシマワンピースを身に纏い、藤色の髪を白く変え、肌に刻印を這わせた桜がことさら残酷に言い放ち慌てふためくライダーを闇の内に取りこんでいく。まるで蛇が獲物を丸呑みにするような光景が、アーチャーの目の前で展開された。
「大丈夫、悪いようにはしないから。ただ、ちょっとだけ反省してもらうだけよ……そうね、半月ほど」
時間をかけてゆっくりとライダーを取りこんでいった桜は、完全にライダーを呑みこんだ後にそうつぶやく。
完全に圧倒されていたアーチャーは、そこでようやく危機が自分の元から去っていったことに気づき、口ごもりながらも桜に礼を言った。
「す……済まない桜。その、助かった」
「いいえ、これくらいなんでもないですよ。それにライダーはわたしのサーヴァントですから」
マスターのわたしが後始末をしないとと、にっこり微笑んで桜が言う。それに圧されつつアーチャーは乱れかけた衣服を直し、口を開く。
「いや、それでは私の気が済まん。なにか……礼をさせてもらえないだろうか」
なんせ貞操の危機を救ってもらったのである。礼のひとつもしなければ。
ひたと己を見上げてくるアーチャーに桜はしばし思案顔をし、
「そうですね……なら」
口端をにい、と吊り上げて、微笑んだ。
「今夜わたしの部屋に来てください。ひとりでですよ。誰にも見つかっちゃいけません。いいですね?」
「え?」
「楽しみにしてます。……それじゃあ」
「ちょ……待っ、桜……」
待つわけがない。
ぴしゃんと襖が閉まる。
呆然としてアーチャーは、もしかして今自分はものすごく迂闊なことを言ったのではないだろうか、と思った。
はてさて、その予感が当たるか否か。それは、桜とアーチャー自身にしか知れぬことである―――――。



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