「ランサー……」
やわらかくしなだれかかってくる、熱い体。どこか湿ったようなそれは南国の花のような甘い香りがした。
毒のように脳髄を、神経を痺れさせる。
抱きとめようとした体が上手く動かない。舌打ちをする余裕さえないと理解して舌打ちをしたくなった。なんていう矛盾だ。白銀の髪がさらりと胸板をかすめて、またも花のような匂いが立ち上った。湿地帯に踏みこんだかのようで身動きが取れない。遠く濡れた音がする。子猫に似たしぐさで舌を出して、女は―――――


目が覚めた。
猛烈な勢いで飛び起きるとまずは周囲を確認する。傍には誰もいない。そして、あたりはまだわずかに暗いだけで、時は夜になりかけのころなのだと仮定した。己のサバイバル能力には自信がある。
そしてようやく最後に、自分が寝入っていたのが衛宮邸の屋根だと確認するとランサーは深く嘆息した。
熱のこもったため息が闇に溶ける。それだけでいまの夢に興奮していたのだと自覚してしまい、あまりの情けなさに頭をかきむしりたくなった。踵を瓦に叩きつけたくなったが自重する。また、士郎にやってこられても面倒だ。
昨日の朝、アーチャーと同衾してからランサーの様子は目に見えておかしくなったことだろう。なにしろ、内心が荒れ狂っているのだ。
死ぬときでさえしっかりと立っていたというのに、いまでは大海に放りだされた小船のようだ。上に下に揺さぶられ落ち着かないったらない。
あの一件のあとなんでもないような顔をして衛宮邸の面々と一緒に朝食をとり、夜になるまで外に出かけた。
理由といえばひとつしかない。アーチャーと顔を合わせないためである。惚れた相手と顔を合わせないようにするというのも変だが、もしその顔を見てしまったら最後、己がどうなるかわからないので仕方がない。
“君にならいい……”
夢見るような表情とやわらかな肢体が同時に脳裏を支配し、ランサーは頭を抱えた。意味なく雄叫びを上げたくなる。
あの野郎。いや、あの女、か?ひとのきもしらないで、と呪詛めいた言葉をどこへともなく吐きだす。君にならいい?馬鹿野郎。抱くぞと口走ったのは確かにランサーだ。だが、それで簡単に抱けるとでも思うのか。口に出しただけで決心がつくのならばいくらでも言ってやる。細い肩を掴んで、おまえを抱く、おまえを蹂躙してやる、愛してやる、愛してる、愛してる、愛してる、と年若い少年のように。
誰も知らないだろう肉体を暴いて、責め立てて、泣かせて、ランサーのものだという証を外にも中にも思う存分刻みつけて。
はじめての。
男に。
「……ああ……」
押し殺した声が漏れた。自らのつま先を見つめて面影を夢想する。白銀の髪、褐色の肌、鋼色の瞳、紅い聖骸布。そうなると止まらない。
長い睫毛、淡いけれど鮮やかな色の唇、華奢なくせに出るところは出た矮躯、ああもう。
がしゃんと瓦が音を立てて一枚、割れた。すまねえ坊主、と詫びながらランサーは目の前にいない相手を呪った。
なんでだ。
なんで、何度も抱かせたくせにこんなに悩ませる。なんで知り尽くしたと思ったところで、手の届かないところで、知らないものになっちまった。
なんでだ。なんでなんだよ、アーチャー。
ちくしょうと唸る。誰に、なにに向けてかはランサー自身知らない。許されるのなら犬歯をむきだして夜空に吠えたかった。意味のない雄叫びを上げたかった。そうでもしないと破裂しそうだった。
理性と野性がしのぎを削る心が。あっけなく破れて中味がどろどろと溢れだして、ランサーだけでなくアーチャーまでもとらえて。逃げられなくなってしまう。
逃げるなどと普段のランサーからすればみっともないことでしかなかった。なにごとも真正面から、それが信条だったはず。それが背を見せて、逃げまどって、とまどって、ほら、みっともないこと極まりない。
青い士郎を笑えない。ランサーもまるで幼いころに戻ってしまったようだと思う。いまだから言うが、ランサーにも純情なころがあった。美しい女を見るだけで鼓動が高まり、顔が熱くなるような。思いだすと苦笑が漏れる。
若かった、青かったと回想出来た。それは昔の自分で、いまの自分は違うのだから、と。けれどいまの煩悶は。
「ランサー」
ぎん、と紅い瞳が睨みつけた先では、少年が多少引き気味ながらも、しっかりとした目つきでランサーを見すえていた。
「なんだよ坊主。なんか用か」
「……飯。持ってきた。昨日までの様子からするに、アーチャーたちと一緒に夕飯するのもつらいかなって」
盆の上には握り飯、それと煮物、卵焼き、焼き魚、味噌汁、漬け物、その他もろもろ。
そして青い塗り箸。
ランサーは黙って握り飯を掴み取ると、大口を開けて食らいついた。具も入っていないただの握り飯が何故こんなに美味いのか。わけもわからずひとくち、ふたくちで飯を平らげ、飲みこむ。卵焼きもちょうどいい焼き加減だ。
どろりとした心の飢餓が正常な意味での空腹にとって代わられたようで、ランサーは盆の上に用意された、ささやかながらもしっかりと味つけ、調理された早めの夕飯を平らげた。
「さすが。最速のサーヴァントだけあるな」
「は。誉めてもなにも出ねえぞ、坊主」
食器を片づけながら笑う士郎。なかなか美味かった―――――不器用に笑うその横顔を見て、ランサーはふと思った。そしてその言葉を口にした。
「……ちょっと普段よりも味つけが変わった気がしたがな。美味かったぜ。腕、上げたじゃねえか」
「ん? なら、その言葉は直接作った相手に言ってやるといいと思うんだ。心配してたぞ」
「―――――は?」
坊主、が、作った。んじゃねえ、のか―――――!?
声にならない声を上げ、口をぱくぱくさせているランサーに、これまでの仕返しのように笑いかけると士郎は早足で梯子を下っていった。赤銅色の髪が消えて……ひょこりと飛びだして。早口に、士郎は告げた。


「アーチャーだよ」


それだけを言うと士郎は今度こそ消えた。梯子を担いで土蔵により、それから居間に戻るのだろう。
呆然として、ランサーは吠えた。
「ああああのガキがああああ!」
急に腹の中がぼっと熱くなる。アーチャーの作った飯。それを見抜けなかった自分。士郎の笑顔。まざりにまざってめちゃくちゃになり、ランサーは両手で一枚ずつ、計二枚の瓦を叩き割った。じん、と振動が伝わってきたが、なに。大したことじゃない。
見たものすべてがぞっとするような笑みを浮かべ、ランサーは宙を見つめる。
騙しやがった。騙しやがったな、このオレを。騙したのは士郎か?それともアーチャー?いや、どちらでもいい。決心をつけさせたのはたったひとつの握り飯。
ランサーが出来るだけアーチャーから離れようとしていたのはアーチャーとて知っているくせに、何故わざわざ魔力までこめた握り飯をランサーに与えようとする。
策略か?……いや、アーチャーはきっとそんなことを考えたりしない。
細い指を踊らせ。赤い舌を出して。手についた米粒を舐めとって。食べものを作るためだけの作業がそこまで淫靡になるとは。
ランサーは舌打ちをした。
夢の中ではなかったので、簡単にそれは口から迸った。
ち、とかすかな音。
それは屋根を転がり落ちていって、地面に穴を開けただろう。大穴を。蹴躓けばいい。誰か、そうだな。士郎あたりが明日の朝にでも、足を引っかけて転ぶといいのだ。これは八つ当たりじゃない。これは八つ当たりなんてものじゃない。
呪詛だ。
“君が、ほしいんだ”
周囲の瓦が粉々に砕けた。爆発音。多少はこれでまぎれただろうか、ランサーの声もかぎりの絶叫が。
ほしい。オレだってほしい。おまえがほしいに決まってる。だけれど抱けないんだ。それがどうしてわからない。
馬鹿ばっかりだ。まわりもおまえも、そしてオレ自身も。
「―――――っは、はぁ……っ……」
荒く息をつく。見回せば、あたりは惨状。朝になればきっと誰かが目ざとく見つけて追究するだろう。これからだって物音を聞きつけてやってくるかも。
そんなことどうでもよかった。
いまは、ただ。


「アーチャー……」


妄想の中に引きずりこまれていく。甘い花の匂い。腕を伸ばして抱きしめようとするがその腕は届かない。アーチャーは遠ざかっていく、なのに花の匂いは強くなっていく。細い腕を掴もうと伸ばす手がなにも掴めない。掴むのは闇ばかりだ。
ランサー。名前を呼ばれる。ああ、ならこっちへ来いよ。おとなしく腕の中へおさまってくれないか。
それで、オレに一体どうしてほしいのか教えてくれ。
ふわりと幻覚のように甘い甘い匂いが鼻先を横切る。ああ。いっそこれまでのすべてがただの夢だったらどんなにいいか。
そうしたら無理矢理にでもつかまえて離さずに、引き裂いて、押し入って、抱きしめて、逃がさない。そうしたい。
ランサーの体は、そう訴えている。
だがこれはすべて現実なのだ。たった一瞬の劣情ですべて好きなように、めちゃくちゃにしていい夢とは違う。
ランサーはこぶしを振り下ろす、だがその寸前で止めた。頭を抱える。
「…………ッ…………」
わからない。
どうしたらいいのか。
わからない。
ただ、ひとつだけはわかった。いまここにアーチャーがいなくてよかったということだ。
アーチャーがいたのなら、確実に壊してしまう。
「どいつもこいつも……」
つぶやいて、片膝を抱える。それきり、しん、とした暗闇と沈黙がランサーを包みこんだ。
その、沈黙の中。高い高い一本の木々のあいだから、アーチャーが細い枝の上に立ってランサーを見つめていた。その表情はせつなげで。 なにかを言おうとして、出来ない。なにかをしようとして、出来ない。
だから、じっと見つめていた。苦悩する男を、じっと、ずっと。
夜は、更けていく。



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