「あら」
平和な昼下がりの商店街。またも聞こえてきた可憐な声に、弓兵はびくりと体をすくませる。彼女の肩を抱いていた一方の槍兵は、すこぶる嫌そうな…………いや、全力で嫌がっている顔でそちらの方へと振り向いた。
「またおまえか」
「また会いましたね。相変わらず仲睦まじくてうらやましいです。子供が生まれるのも時間の問題ですね」
「生まれるか!」
「まあ。駄犬の性欲と精力をなめてかかってはいけませんよ、アーチャー。この男は目を合わせるだけで女を落とし、手をつなぐだけで孕ませてしまうのです。あなた、大丈夫ですか? 先日仲良く手をつないで歩いていたでしょう?」
「…………!」
「ちょ、おま、でたらめなこと言うな! っておいアーチャー、なに小刻みに震えてるんだおまえ! 嘘だよ、この陰険シスターの嘘八百に決まってるだろうが!」
生まれたての小鹿のように細かく震える弓兵は少し青ざめて槍兵から距離を取ろうと後ずさった。自分を守るように体を抱いて、なので大きくたわわな胸がまた強調されているのに彼女は気づいていない。
さて、陰険シスターと呼ばれたところである銀髪の少女はかけらも気にしない態度で涼やかに首をかしげるとあら、と小さくつぶやいた。
「完全に怯えられていますね、ランサー。恋人同士で信用がないというのは悲しいことです」
「おまえの嘘八百のせいだろ!」
「なにを言うのかしら。主に仕える身であるわたしが嘘などつくと思いますか? ほんのお茶目な冗談です」
「同じことだ!」
少女は今度は逆方向に首をかしげた。そうでしたか、と白々しくつぶやく。
「知りませんでした。わたし、無知な乙女だったのですね」
「乙女!?」
「ええ、乙女ですとも。なにか文句でもありますか?」
「……大いにある。小一時間と言わず一週間かけてでも問い詰めてえ」
「あらいやだ。そんなに長くあなたといたら孕んでしまいます」
「だからそういうことを言うんじゃねえと!」
「事実でしょう」
「真顔で言うな」
「真実でしょう」
「真顔で言うな」
弓兵は蚊帳の外だ。むしろ自分から選んでそこに落ちついた。このマスターとサーヴァントの間柄ときたら突拍子もなく非常識で、多少でも関わりあえば一生もののトラウマを背負うことになるだろう。もう充分なほど背負っているのに、これ以上はいらない。
小さくなってうずくまっていた彼女の耳に、甲高い声が届いた。ふと影がさし、弓兵は反射的に顔を上げる。
「お姉さん、どうしたんですか? あ、これ買ったんですけどおひとついかがですか。美味しいですよ」
「ギルガメッシュ…………」
わあ。
余計面倒なのが来た。
弓兵に声をかけた英雄王(小)は両手で紙袋を抱えて純粋無垢そのものといった表情で微笑んでいた。けれど弓兵は知っている。
その正体。どちらが表でどちらが裏?黄金のコイントスで有利になるのは一体誰?
少なくとも自分ではない。
「いらないですか? 甘いもの、嫌いでした?」
「あ……ああ、失礼した。そんなことはない。ひとつもらおうか」
「はい!」
たくさんあるんですよ、と笑う英雄王(小)。男の身だった頃から子供には弱かった。差し出された大判焼きを受け取るとぱくりとひとくち齧る。餡子の甘味が優しく口の中に広がって、なんだかほっと癒された。
「戻ったのですか。それならそうと早く言いなさい」
「はい、すみませんでしたマスター。だけどランサーさんとあまりにも楽しそうにお話をしてたもので、つい。なんですか? 略奪愛ですか? あはは、大人ってこれだから信用ならないなあ」
「てめ、このギルガメ! 冗談でもそんなこと言うんじゃねえよ!」
「そうですよ。そんなこと言われたらわたしあまりの苦痛にこの若さで世を儚んでしまいそう」
「そこまで言うか!?」
「足りないくらいです」
槍兵はがくりと肩を落とした。ちょっと泣いている。少女はあっさりとそんな哀れな子羊を放って、ゆっくりと荘厳に英雄王(小)の元へと歩み寄っていった。
「きちんと買えましたか? あなたの財力には問題はありませんが、人格には少々疑問が残ります」
「あはは、やだなあ。ボクも同意見ですよマスター。はい、きちんと買えました。ひとつお姉さんにあげましたけど、それでもまだまだたくさんありますから安心してください」
「そうですか」
紙袋を受け取ると少女は中を覗きこむ。そして、にこりと微笑んだ。
「確かに」
満足そうにまだ温かい紙袋を胸に抱きしめる姿は、年相応の少女に見えた。槍兵も、弓兵も、しばしのあいだ心を奪われた。いやそれは愛だの恋だの好きだの嫌いだのと甘い感情ではなく―――――見てはいけないものを見てしまったような心境だった。
地獄の扉のむこうがわ。
「あら。アーチャー」
「な、なにかね」
「こんなところに餡子がついていますよ」
はしたない、とつぶやいて少女は赤い舌をひらめかせた。弓兵の唇のちょうど横をぺろりと舐める。
「!」
「!」
「わあ」
弓兵は固まり、槍兵は目をむき、英雄王(小)はかわいらしく笑った。少女はなんでもないように自らの唇を舐めると、あらいやだ、と眉を寄せてつぶやいた。
「駄犬と間接キスをしてしまいました。嫌だわ、わたしまで孕んでしまうのかしら。せっかくの命は大切にしたいけれど……」
「か、間接キ、キスとは、その、君!」
「カレン! おまえ、いい加減にしねえと女でも容赦しねえぞ!?」
「なにを言っているのです?あなたは女性相手でも容赦しないでしょう。…………ねえ? アーチャー」
「え」
弓兵はぽかんと目を丸くした。少女はその目を見つめたまま、天使のような笑顔で微笑む。
「先日の夜はお盛んでしたね」
「ちょおおおお待てええええこの陰険シスターもといピーピングシスター! 一体いつ覗き見しやがった!」
「ランサー墓穴墓穴! というか落ちつきたまえ!」
先に人が狂えば残りは狂えない。
顔を真っ赤にして少女に掴みかかろうとする槍兵を、弓兵はその腰にしがみついて必死で押さえた。筋力の違いもあったがそこは女体の神秘、別腹に代表される底力。なんとか押さえることができていた。
「ええい離せ、離してくれアーチャー! このままこいつを放っておいたらいつかおまえの純潔が散らされる! 奪われる! 幻と消える!」
「ですからなにを言っているのです。そんなものはもうとっくにないでしょう? ねえ? アーチャー」
「こ、言葉責めはよしてくれないか……!」
「とんでもない。わたしは事実を述べたまでです」
同じ女性としてわかるのですよ、と両手を組んで少女は天を仰いだ。
「主よ。夜ごとふしだらな行為に至るこの男女にどうか哀れみをお与えください」
「見てきたようなこと言うな! せいぜい一週間に五回だよ!」
「わあ。墓穴がどんどん増えていきますね、ランサーさん」
「ランサー…………!」
「週休二日制ですか」
ゆとり教育ですね、とつぶやく少女。この少女は基本的にはきはきと喋るが大きな声を出さない。ただしその分ひとことが重い。途方もなく重いのだ。
さらりと清流のように吐き出される言葉は濁流のように激しく他人の意識を押し流す。まったく不可解な少女である。
その少女に惑わされた恋人たちふたりは、木の葉のごとくはかなく踊らされてもてあそばれた。
「さて、そろそろ時間です」
少女は包帯を巻いた手首を見やると、いつもの調子でそうつぶやく。そこにもちろん時計はなかった。
「わたしはあなたたちのように暇ではないので、お先に失礼しますね。行きますよ」
「はい!」
英雄王(小)は元気よく答えると、おどけたように敬礼をしてみせて笑った。
「了解です、マスター。それではお姉さん、ランサーさん、またいつかどこかで! 夜のお付き合いもほどほどにしてくださいね!」
「ギルガメてめえ最後に不穏な言葉を残して去るな! 遺言にしてえのか!」
「あはは、まさか。ボクの方がランサーさんより強いですよ、なんちゃって! 冗談です、冗談!」
「ギルガメええええ!!」
「それではお二人ともさようなら! よい営みを!」
たたたっと軽やかな足音で駆けていく英雄王(小)の背中は先を行く少女の背とともにあっというまに遠くなっていった。
槍兵が伸ばした手はむなしく宙を掴む。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「…………ごめんな」
「君が謝ることではないよ」
半泣きになった槍兵の頭を抱えて、弓兵はそっと己の胸元に押しつけた。



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