「まだなのかよ、アーチャー」
あーちゃー、と間延びした大変間の抜けた声で私を呼ぶマスターを適当にあしらい、私は酢飯をかきまぜる。
反対側の手に持ったうちわで、ぱたぱたと熱を持ったそれを扇ぎながら。
「まだ調理は始まったばかりだ。ひなあられでも食べて待っているがいい、マスター」
甘酒もあるぞ、と振り返らずに言えば不満そうな声。
……まったく。今時の幼児とて菓子とジュース、アニメ番組のビデオを与えておけばおとなしくしているというのに。
大体が、ちらし寿司を食べたいと言いだしたのはマスターだぞ。マスターの妹……桜といったか。彼女が言うならまだしも、桃の節句に何の関係もない男子であるマスターが駄々をこねるのはどうかと思う。
そういえば桜……彼女には一度も会っていないな。ただ、ときおりどこかから気配と視線を感じるので、向こうは私を見ているようだ。
ふむ。
なんだ、その。なんとなく……背筋になにか怖気のようなものが走るのは、気のせいだろうな。気のせいだ。
ぱたぱたとうちわで扇ぎ、頭の中からもその考えを消す。雑念を持って料理に挑むのはよくない。
さて、その私だが今の格好を言わせてもらおう。外部から言われるより先に、だ。
大輪の花があしらわれた桃色の着物に、割烹着。
当然マスターが用意したものだ。
もちろん好んで着ているわけではない。ただ、あまりにも……駄々をこねるその姿が……正視に堪えないものだったので……。
侮ってはいけない。マスターのようなもう少年というよりは青年と呼んでもいいほどの体格の者が床でじたばたと水揚げされたマグロのように暴れるのはなんというかもう、本当に、情けないとか見苦しいだとかそういったものを超越していっそ見惚れてしまうほどだ。
見たくはなかったな。正直。
涙どころか鼻水まで出ていたし。ああ記憶から消えてくれない。恨むぞマスター。地獄に落ちろ。
心の内でマスターを呪いながらてきぱきと調理を進める。酢飯は冷めた。あとは具を用意して……。
と、突然後ろに気配を感じる。振り返ろうとしたその瞬間、強く抱きしめられた。私ということが、なんという不覚!
「というか……マスター、何をしている?」
「へへへ……相変わらずいい体してるじゃないか、アーチャー……」
「質問に答えないか。それから普段から私が君に体を触らせているような言い方はすぐやめろ。不愉快だ」
「なんだよつれないなあ……ひっく」
ひっく?
振り返って見てみれば、マスターの目はどろりと濁り、顔は赤く、吐く息は酒気を帯びている。
まさか。
「マスター、甘酒を飲んだか?」
「ハイハイハイ飲みましたよっと! うぃー……ひっく。なんだよ文句あるのかよおまえが飲めって言ったんだろお〜……」
「いや……ここまで弱いと知っていれば薦めはしなかったぞ……」
まさか甘酒でべろべろになるとは、一体誰が予想しただろうか。弱い!弱いぞマスター!
「不覚だ……」
額を手で押さえると、私はため息をつく。
その後ろでなんだかんだと喚いているマスター。ちょっと騒がしいので少し黙っていてくれないだろうか。五年ほど。
「アーチャー!」
そう思ったとたん耳をつんざく怒鳴り声を上げてマスターが私の体をさらにきつく抱きしめた。そしてきわどく体のラインを辿り、
「おいマスター……! さすがにここまでの狼藉を働かれては私も実力行使に出ざるをえんぞ!」
「どうせ女なんて男のためにいるのさ。だからアーチャー、おまえも黙って僕に……」
「マスター!」
私は怒声を上げると手にしたしゃもじとうちわに力を通す。そして目を閉じた。
安心しろマスター、サーヴァントとしての情けで、峰打ちで済ませてやる。
手を振り上げようとした、そのときだ。


「固い……」
「は?」
「胸が固い……」


胸、と言われて視線を落としてみれば、胸元をまさぐるマスターの手。
「ああ、着物を着るときは胸が大きいとさすがに下品だということでな。正月に君も言っていただろう? さらしを丹念に巻いて押さえつけさせてもらったよ」
そう言うとマスターの顔がなんともいえない表情を浮かべていびつに歪む。
片方の手が私の胸から離れる。
「あと、板も追加させてもらった。鉄壁の守りと言えるだろうな」
ぴしり、と音がしたような気がして、またマスターの顔が歪む。
片方の手が、離れた。
マスターはそのままよろよろと後ろ向きに歩いていき。
その足がソファにぶつかったとたん、そこに突っ伏して大声で泣き喚き始めた。
「男の夢があぁあぁあぁ僕のドリーム・プランがあぁあぁあぁ砕けた! 壊れた! こっぱみじんだ! うわあぁあぁあぁん!!」
束縛から解放されて、私は離れた位置からマスターを見守る。甲高くも野太い声で泣き喚く姿を見て、なんともいえない気持ちになった。
私はそっと涙でソファを濡らすマスターの傍に歩み寄っていくと、その背中をぽんぽんと叩いてやった。
その日マスターは泣き疲れて眠ってしまい、ちらし寿司は明日の夜のメニューとなった。



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