リビングは沈黙に満たされていた。
私はぱたぱたとその辺の調度品にはたきをかける。ご老体は趣味が良いらしく、それらはどれも上品であり、なおかつ価値のありそうなものだ。なので私は最大限の気を使い、それらに接する。厳粛に。
そもそも家事に対するときは神聖な気持ちで望まねばならんのだ。いくら楽しいといっても、かけらも気を抜いてはいけない。そういうものである。掃除洗濯料理に近所付き合い。
そういうものだ。
「……………………」
ずずずずー。
心穏やかに花瓶にはたきをかけていた私は、少々下品なその音に首だけで振り向いた。そこに誰がいるのかはわかっている。
わかりきったことである。ご老体は外出か調べ物などで表へと出てくることはほとんどなく、マスターの妹も部活や勉学などで団欒の間、いわゆるリビングにはほとんど顔を出さない。
……まあ、その。この邸宅のリビング及び家族が、団欒に向いているか値するかとかそういったことは、私の口出しすることではないのだけれど。まったくもって。
「……マスター」
はたきをかける手を止め、私は彼に声をかけた。白いカップを手にし、クッキーの置かれた(余計なことを言うならば、そのクッキーは私の手製である。先日マスターに強請られ作った。厄介なことである)皿を前にしたマスターは答えない。
「音を立てて飲み物を飲むというのは、下品であると思うが。止めた方が良いと私は思う」
苦言を呈すると、マスターはぴくりと反応し上目遣いでじろりと私を見た。ええと。これは……なんというか。
まるきり、ふてくされた子供の顔である。率直に言うのなら。
「なんだよアーチャー。おまえ、サーヴァントのくせに僕のすることに口出しするのかよ」
某少年のくせに生意気だ、といった某アニメの某ガキ大将のように絡んでくるマスター。彼は最近、このように機嫌が悪かった。
そして―――――紅茶ではなく、コーヒー。それもブラックを、好んで口にするようになった。
「いや、そうではないが。ただ私は……」
「うるさいな、そうだろ! なんだよ、おまえサーヴァントのくせに僕に逆らうのか! 生意気だぞアーチャー! 大体おまえはな、」
「マスター」
いきり立ち、席を立ちかけたマスターに眉を寄せ、私は困ったように彼に問いかける。
「私が……君になにかしただろうか? 大変申し訳ないのだが、心当たりがない。良ければ教えてもらえると助かるのだが」
常々思っていた―――――二月半ば頃から―――――疑問を口にすると、マスターの形相が変わった。虚を突かれたように目を見開き。そして―――――次の瞬間、
「アーチャーあああああ!!」
癇癪を起こしたように、席から飛び上がるように立ち上がると、私に向かって怒鳴り散らし始めたのだった。
「おま……おまえ、わかってなかったのかよ! まさかとは思ってたけど本当に!? 本当にわかってなかったって!? ほ……ほとほと愛想が尽きたよアーチャー! おまえは胸ばっかりおっぱいミサイル級に大きくて頭は空っぽのダメッダメドジっこサーヴァントだ!!」
あ。
今のはかなり、頭に来たぞ。マスターよ。
とっさに愛剣を投影し、その頭をかち割ろうとしそうになった衝動をなんとか押さえ、私は胸の前でゆったりと腕を組み、こめかみに人差し指を当てる。そうして、長々とため息をついた。
「……マスター」
彼はマスター彼はマスター彼はマスターこれでもマスター私のマスター彼はマスター彼はマスターこれでもマスター
延々とそう心の中で唱えつつ、意識して静かな声を作りマスターへとつぶやく。
「私はそう察しがよくない。何か不満があるのなら―――――」
「いいか? おまえはいま、“君になにかしただろうか”そう言ったんだアーチャー。だがてんでお門違いだよ! “なにかした”んじゃない! おまえは僕に、“なにもしてない”んだ、アーチャー!」
「……え?」
予想外のマスターの言葉に、とっさに怒りを忘れて私は目を丸くした。“なにもしてない”?
「マスター……その、言わせてもらうが。私は君のためにそれなりに力を尽くさせてもらっているつもりだが。なのに、何故……」
「わかんないのかよ! わかんないのかよ、アーチャー! 二月十四日! その日が何の日か―――――考えてみろ!」
叫んだマスターに、私は脳内のデータベースを検索する。聖杯より授かった現代の知識だ。二月十四日、二月十四日……。
…………。
「……バレン、タインデー?」
「そうだよ!!」
呆然とつぶやいた私に、やっとわかったか!と言いたげにマスターは絶叫した。だがそれとマスターの不機嫌と最近のブラックコーヒーの過剰摂取となんの関係があるのか。
「すまないマスター。そこまで言ってもらってなんだが、理由がわからない」
理解不能だ。
そうつぶやくとマスターは、焦れたように私へと言い募る。
「おまえ、僕にバレンタインのチョコくれなかったじゃないか!!」
…………。
……ああ。
それか。
「……学校で女生徒に大量にもらっていたと自慢していたのでわざわざ私から渡すこともないと……」
「それとこれとは別だろ!? 察せよ! 女だろ!? 一大イベントだろ!?」
いや、サーヴァントに甘酸っぱいものを期待されても困る。
「それは理解した。ならば、何故最近紅茶のみでなくコーヒーばかりを……?」
マスターはその言葉に、学生服のポケットを探ると、くしゃくしゃの紙を一枚私に力いっぱい差しだしてきた。どうやらパソコンで検索したページを印刷したものらしい。
「“ブラックデー”……“バレンタインデーやホワイトデーで贈り物を受け取れずそのまま恋人ができなかった者同士が、黒い服を着て集まり、チャジャン麺やコーヒー……注、ブラックコーヒーであることが普通……を飲食する日……」
淡々とそれを読み上げ、私は首をかしげると肩で荒い息をついているマスターに向かってたずねる。
「だが、もうその日は過ぎているようだが」
「あてつけだよ!!」
…………。
なるほどなー。
「いいか! 鈍いおまえでもいつか気づくと思ってずーっと待っててやったけど絶望的なことがわかったから今ここで言ってやる! 僕はこのままイエローデーを迎えるなんて屈辱的なことは絶対にごめんだ! カレーライスは好きだけど黄色い服なんて趣味じゃないんだからな! ……わかってるだろうな、アーチャー……!!」
ちなみにイエローデーとは、“ブラックデーが過ぎても恋人ができなかった男性が、この日に黄色い服を着てカレーライスを食べないと恋人ができないとされている”と言われている日だそうである。渡された紙の下の方に書いてあった。
私は涙目のマスターを見て、眉間に皺を寄せると……


「……了解した、マスター」
明日のおやつはチョコレート、トリュフ辺りにしよう。
そう、記憶の片隅にメモしたのであった。
だけれどマスター?
私が君の恋人になるなんてことは、私が君の思いに気づくよりも絶望的に無理だということを、果たして理解しているのかな?



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