高層ビルの屋上、冷たい風。
男が一人そこに立っている。そこは底、一番天に近い場所であるのにまるで地の底のように暗い。男―――――弓兵は、無表情で眼下に見える街の灯りを見下ろしていた。一瞬だけ、強い風が吹き荒れて赤い聖骸布を巻き上げる。
「よお」
弓兵は黙って街を見下ろしていた。すると背後の気配は大して不満でもなさそうに鼻でその無関心さを笑う。
「人が話しかけてやってんだ、返事くらいしろよ。まわりのことばかり気にして過ごしてるんだ、こっちのことくらいすぐわかんだろ」
「駄犬と話す口は持ち合わせていない」
「は。…………相変わらず頭に来る野郎だぜ。遠回しに殺し合いでも仕掛けてきてるのか?」
まさか、と弓兵はつぶやく。
「君にかまっている暇など私にはないのだよ」
「ああそうかよ。予想通りすぎて頭に来る面白味もねえな、おまえと話してると」
陰険な会話は、しかし淡々としていた。弓兵はようやっとその言葉に振り返る。目をすがめるようにして背後の男、槍兵を睨みつけた。
「予想通り?」
「そうだ」
「君に私のなにがわかる」
「わかりたくもねえな。だがな弓兵。おまえが振りまいて歩いてんだろ。同情してください、自分は頑張っています、どうか、ってな。生憎とオレにはそんな義理はねえが、そんなんじゃマスターのあの嬢ちゃんにも大層な負担がかかるんじゃねえのか」
「彼女のことは言うな」
「なんだ、頭にでも来たか?」
「…………」
「オレを狗だのなんだの言う割に、おまえも充分狗じゃねえか。知ってるぜ、おまえが…………」
裂帛の叫び。
渾身の力をこめて振り下ろされた夫婦剣はコンクリートを抉り取っただけだった。いつ取りだしたのか、魔槍を肩に担いでにやにやと嫌な笑いを浮かべる槍兵に、弓兵は切っ先を突きつけて吠えた。
「君に私のなにがわかる!」
繰り返されたそれは、慟哭に似ていた。
軽い足さばきでかわしつづける槍兵の後を追って、まったく冷静でない剣が振り下ろされては無意味な破壊を続けていく。無意味だ。無。意味などないなにもない存在しない望まない望めない望まないもう諦めた。
「どうせ私は!」
剣を振り下ろす。
「行き止まりなのだよ、逃げ道などない!」
振り下ろされた剣は破壊のみを続ける。無機物の破壊を。それだけが弓兵にとっての救いと言えただろうか。命のないもの、それだけを選んでいるようにもう一人の彼、剣は殺しを続けていく。
槍兵には、一撃でさえも当たらない。それでも弓兵は攻撃をやめなかった。
「私に触れるな!」
血を吐くような声。
弓兵は吠える。
「わかったような顔をして私に触れるな、狗!」
槍兵はため息をついた。肩に担いだ魔槍はそのままに、懐へ飛びこんできた弓兵にささやく。
「馬鹿が」
その刹那、容赦なく蹴り飛ばされた弓兵は苦鳴の声も上げる隙もなく後ろへと吹っ飛んだ。叩きつけられ、バウンドし、ごろごろと転がっていってやっとで止まる。そこで痛みを思い出したのか、芋虫のような体勢で、低い声で唸りを上げた。
軽い足音。
槍兵は散歩でもするかのようにその傍まで歩いていって、しゃがみこむ。首をかしげると青い髪が流れて揺れた。
「いい格好だな?」
「…………っく、は、」
「だらしねえ」
触れるな、と言われたとおりに槍兵は弓兵の体には一切触れなかった。ただ、言葉で触れてなぶって遊ぶ。
犬がようやく与えられた玩具で遊ぶように手加減なく噛みついて、悦びに尾を振って楽しんだ。
「いつもの澄ました顔はどうした。あ? 出来てただろうが、表面だけは取り繕ってたじゃねえか。お綺麗です、自分は穢れてなんかいません、どうか信じてください、ってな。もっとも不出来でちっとも役には立ってなかったがよ」
「! …………」
「バレバレなんだよ。あの坊主や他の誰かみたいに鈍いやつ相手ならそれで通せてたかもしれねえがな、嬢ちゃんやオレ相手じゃ無理だ。……かわいそうにな」
誰が?
聞くこともなく、聞かれることもなく終わる。
埃と汚れにまみれた弓兵は、じっと槍兵を睨みつけることしかできない。それに本当に楽しそうに、楽しそうに笑って、槍兵は手を伸ばした。
拭うように無数の傷がついた褐色の肌に触れる。眉を寄せてさらに睨んでくるのにかまわずに、滲んだ血を広げるように力を入れた。
見た目だけは労わってやるように。
けれど傷は開いて、弓兵は苦痛に顔を歪める。
「―――――あ、」
血に濡れた親指がむりやりに閉じた口をこじあけ、中へと入っていく。首を動かして顔を背けようとしたができない。
ぬるぬるとした体液の助けを借りて入っていってしまう。唇は拒もうとして閉じようと動くが、それさえも指を挟んでさらに内へと招く結果にしかならないのだ。
槍兵は何故か探究心の深い子供のような顔をして、弓兵の口内を探っている。指の動きは容赦なく、軽い嘔吐感に襲われて弓兵は呻く。そうするとぽたり、と涎が落ちてコンクリートを黒く染めた。
「ん」
一気に引き抜かれた指に弓兵は喘いだ。涎に濡れた指をぐいと首筋で拭かれ、頚動脈を押さえつけられてまた喘ぐ。
槍兵はそのうなだれた頭を押さえつけると、先程までの子供のような表情が嘘のように笑った。
それは男の顔だった。どうしようもなく嗜虐に溢れた、子供だなんてとんでもない、どうしようもない男の。
顔、だった。


「どうした? 弓兵」
濡れた音がする。
「その口で言ってみせろよ、毎度のへりくつをよ」
槍兵は愉悦の表情を浮かべながら弓兵の頭を押さえつけている。
「どうした、言えねえのか」
笑っている。
「ああ―――――」
そこで、吐息とも嘲笑ともつかないものを、吐き出した。
「ああ、オレが口塞いでたな。こりゃ悪かった」
口内いっぱいに槍兵の熱を咥えさせられて弓兵は口がきけない。漏れるのは荒い息と呻きだけで、片目は苦しげに閉じられていた。
そんな様子がおかしいのか、悦のためか槍兵は始終笑みを浮かべている。
「抜いてほしいか? ……やらねえよ」
「…………っふ!」
突き入れられて、呻く。閉じられた目からたまらずに涙が溢れ出た。本当に口がきけない。
口内は槍兵の熱で埋めつくされているし、頭は霞がかったようでいてそのくせはっきりと恥辱を知覚して、言いたいこともまとまらないのだ。
屈辱が体の中を駆け巡る。それでいて、中心は反応している。
私はおかしい。
弓兵はわかりきったことかと諦めたように内心でつぶやいて、また抜き差しされ始めた槍兵の熱に翻弄された。苦しかった。
悦かった。
矛盾していた。
最初からそうだった。
水音がする。高まった弓兵には気づかないのか、気づいても理解しようとしないのか、槍兵は自らの快楽だけに集中している。
は、と一度だけ。やはり吐息とも嘲笑ともつかないものを、吐きだした。
「…………行くぞ」
問う時間もない。喉の奥に出されて咳きこんだかと思うと、顔に残滓を擦りつけられる。ねっとりとした体液が喉と頬を同時に滑っていく。また感じる、軽い嘔吐感。
「吐きだすな、全部飲め。……少しでも力を蓄えておいてもらわねえと困るんだ」
遠くから聞こえる声。
解放された口元を押さえて、精一杯に見上げる。
赤い瞳をらんらんと輝かせ、槍兵は笑っていた。
楽しそうに。
本当に楽しそうに。


「今度会ったら、殺し合おうぜ」


涙が流れる。
弓兵は懸命に熱い苦味を飲み下しながら、眉間に皺を思い切り寄せて槍兵を睨みつけてやった。


「ああ―――――約束しよう」
その口元は精に汚れて、それでも、笑っていたのだった。


それまで止まっていた冷たい風が、二人の男の髪を服を乱すように強く吹いた。
槍兵は弓兵のまぶたを撫でると、眼窩を抉るようにしてつぶやく。
「…………今度は、ここでやるか?」



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