「…………ああ、ランサーか。君も早くこちら側に来るといい」
そう言って口端を吊り上げて粘着質に笑ったのは、かつて紅の聖骸布を纏っていた弓兵だった。今現在、その身は漆黒。体には紋様が這う。
「ランサー。さあ」
手を差し伸べる。その手にも血管のような紋様が這っていた。おぞましさにではなく舌打ちをして、顔を歪める。
「さあ、早く来るといい。ここは気持ちいいぞ」
馬鹿野郎が。ひとりごちると槍を構えた。君がいなければ意味はない、そう言って笑う心臓に狙いを定める。
「だらしねえ真似してるんじゃねえ…………みっともない姿をオレに見せるな! 普段通り嫌味な顔してしゃんとしてろ!」
「ランサー?」
不思議そうに瞬くと、悲しそうな顔をしてみせる。なにもかも作り物のようだ。その存在さえまともに見えない。まるで陽炎が揺らいでいるかのようにおぼろげで曖昧だ。だがそれは都合がよかった。
本当にまっすぐに見たくはなかったし、それだからこそまっすぐに狙いを定めることもできた。
紅い魔槍を、その心臓に向けて。まっすぐに。
泥の中心に立った弓兵はことんと首をかしげて幼女のように胸に手を当てた。心臓から少し離れたちょうど中央。揉みしだくように軽く己の手を動かせて、嘆息する。
「ランサー」
声までもが幼くて騙されそうだ。……馬鹿な男ならば。
「ランサー……」
構えた槍をとっさに弾くために使った。ぎいんと鼓膜に響く音がする。投影された夫婦剣は紅い槍の周囲を掠めるとどろりと溶けて泥になった。それ自体には触れずとも穢れる気がして振り払う、ついでに弓兵自身も。
懐に飛びこんできていた弓兵は大きく後ろに飛び、勢いのまま無表情で宙で一回転をした。そのまま足元も見ずに着地する。
乱れぬ呼気に足取り。すぐさま横に飛んで矢を番え、射ってきた。何発も何発も何発も。それをすべて避けて首筋めがけ槍を突きだす。わずかに皮膚が切れて赤い血が噴きだした。
あまりにも鮮やかなその赤に刹那、あの聖骸布を思いだす。だがそれも一瞬だ。これはあれではない。
「ランサー、ランサー、ランサー!」
「うるせえ! 発情してるんじゃねえよ、この弓兵が!」
「君が悪いのだよ、そんな目をして私を見るから! そんなに激しく私を攻めてくるからいけない! ―――――ああ、いけないのだよランサー、君がいけない! 君がすべて悪い!」
だから、と弓兵は言う。
またいつのまにか投影した剣に舌を這わせ、唾液でぬらぬらと光らせて眉間に皺を寄せる。その表情はどこかあれにも似ていたがやはりあれではない。剣と同じ鋼色をしていたはずの瞳はいまや澄んだ琥珀だ。
濁っていたらまだよかったのに、どこまでもどこまでも澄んでいる。
狂人の瞳。
人形の瞳。
ただの硝子玉だ。
「だから、ランサー。私に君を殺させてくれ。君の血が見たい。君の血を浴びて達したい。ランサー」
先程までの狂乱が嘘のように静かに弓兵は言った。ぶらりと垂らした手に握った剣は、ぬらぬらと濡れ光っている。生きているように。血管のような紋様と同じく脈動しているように見えた。
はしたなく。
「やめろ。そんな目でオレを見るんじゃねえ―――――気色悪い」
「そんな目とは?」
「嬉しそうに聞くな。どこもかしこも濡らしてるんじゃねえぞ、てめえは雌犬か? 駄犬に尾を振ってどうする。自分の言い草を忘れたとは言わせねえからな」
「ああ……そんなことも言ったか。詫びよう、ランサー。君は決して狗などではないよ。君が私を雌犬だと言うならば悦んで私は従順な君の狗になろう。もっと呼んでくれランサー。私は全身全霊をもってそれに応えよう」
「何を聞いてた? てめえ。今すぐ水で顔を洗ってこい、そこの泥じゃねえぞ。水だ。濡れたその下半身からいかれた目から全部洗って出直してこい。そうしたら望み通り抱いてやる」
「気づいていたのか」
聖骸布の裾を少し持ち上げて弓兵は目を細めた。紋様の這う褐色の肌を赤らめることなく、恥じらいもせずに言ってのけた。
「君が悪いのだよ、ランサー」
うっとりと。
笑って、続けた。
「君の血を浴びたら、完全に私は果てるだろう」
舌打ちさえも嬉しそうに浴びて、体を震わせる。


「君の命果てるときが、私の果てるときだ」


ランサー。
毒のような甘いささやきに、定めた狙いはぶれもせずまっすぐに心臓を貫いていた。
「ランサー」
愛している。
その声に、狂おしいほどの痛みを覚えたのはこちらのほうだった。顔を上げてきつく睨みつけると体を軽く痙攣させて、どうやら果てたようだった。やっと顔を赤らめて恥ずかしそうに笑い、ランサー、とそれしか言えないようにささやく。


「馬鹿野郎」


その声には怒りとともに愛らしきものが滲んでいて、ああ、やっとこれはあれだと認めることが出来たのだと思った。
ランサー。
ささやく声は、止まらない。



back.