「おら、舐めろ」
口元に突きつけられた靴先に、弓兵は瞠目した。槍兵はその行為とはうらはらに子供のように無邪気に笑って首をかしげる。
「聞こえなかったか?」
親切ぶって繰り返す。
「舐めろって言ったんだ」
そう言うと靴先をさらにぐい、と唇に押しつける。弓兵は低く呻くと思わず口を薄く開いてしまった。
するとどうやらそれを承諾の証と受け取ったようで、上機嫌そうに槍兵は喉を鳴らす。
「敗北者は勝利者の言うことを聞くもんだ。なあ? おまえもわかってるんだろう?」
弓兵は眉間に皺を寄せ、それを聞いていた。睨みつけるように槍兵を見るが相手は恐れるそぶりも見せない。それどころか楽しそうにその抵抗を喜ぶだけだ。
「出来ねえって言うなら―――――」
ぼう、と槍兵の手に紅い魔槍が姿を見せた。蛍のように光るそれに照らされた槍兵の精悍な顔は、今や奇妙に歪んでいる。
端正な分、暗い喜びに満たされたその貌はおそろしくいびつなものだった。
「とどめを刺して気を晴らすまでだ」
言い切ったその声には迷いなどなく、いや、初めから彼に迷いなどあるはずがないのだ。どんなに屈辱だろうと、プライドが地に堕ちようと、やるしかない。
マスターの少女のことを思い出す。名の通り凛とした彼女、だが自分がいなくては彼女はただのひとりの少女だ。ここで自分が消滅するわけには行かない。弓兵は低く声を押し殺して答えた。
「了解した……!」
槍兵は一瞬目を丸くしたが、すぐに三日月のように目を細めると静かに靴先を弓兵の唇に近づけた。どくん、と鼓動が高鳴る。
―――――は、と荒い息が漏れる。弓兵は赤い舌をちろりと出してそろそろと差しだされた槍兵の靴先へと近づけていった。なるべく見ないように、なにも見ないように、けれど目だけはしっかりと現実を見据えて。
逃げることなど許されない。少しでも相手の気分を損ねれば、即座に殺されることも有り得る。演じろ。
得意だろう?隠せ。得意だろう?自らに言い聞かせると、弓兵はそっと舌先をそれに触れさせた。
くちゅり。淫蕩な音を作る。表情もそれに合わせ、恍惚としたものに変じさせた。娼婦のように弓兵は靴先を愛撫する。丹念に、本当に愛しているかのように。いとしいものを愛するかのように。
くちゅり、ぴちゃり。そうしていると不思議なもので、屈辱的な気持ちなど湧いてこなくなるからおかしなものだ。唇をすぼめて吸い上げ、その後でれろりと舌全体を使って舐め上げると、頭上から槍兵の声が降ってくる。
「―――――は。なんて顔だ? おまえ、今自分がどんな面してるのかわかってるか? 生きるためならなんでもやりますってか。オレも大概生き汚ねえ方だが、おまえも相当なもんだな」
答えられない。弓兵はただ舌を使いつづける。男が満足するまで。その暗い嗜虐心を満足させるまで、だ。そう、それだけのはずなのに、何故息が上がる。
靴先にくちづけると、弓兵はそっとそれを持ち上げて自らの手で支えた。そうしてむしゃぶりつくように舌を使う。
涎でてらてらと光る靴先を清めるように舌を使い、結果靴先はまた汚れる。その繰り返しだ。だが男はそれに満足したように目を細めたままで弓兵を見下す。
「そうだ。おまえが好きなもんみたいに、気合い入れて舐めろよ。もっとも、こいつをいくら舐めても…………」
ぐい、とそこで槍兵は靴先を弓兵の唇に押しつけた。
「…………おまえの欲しがるもんは出てきやしねえがな」
槍兵は哄笑した。耳障りな声が耳を犯す。だというのに、弓兵は嫌悪感を感じない。陶酔していた。槍兵の言葉に、少しの残念さを感じてもいた。ああ、こんなに愛したとしても、その報いは受けられないのか、と。
殺してやりたいと思っていいはずなのに、そう思えない。そうだ、男は情事のときにもっとも油断するといえる。これもまた―――――風変わりな情事ではないか?
ならば、槍兵も油断しているはずである。弓兵が自らの手の内に落ちたと思っているのだからなおさらだ。殺せる。殺せないまでも、今の自分と近い状態まで陥れることが出来るだろう。ふわり、と背に隠した手が魔力の熱を帯びる。
だが、それはすぐに霧散した。弓兵はその隠していた手を差しだすと、両手で靴を捧げ持って熱心に舌で奉仕をつづけた。
出来なかった。出来なかった。無理だ、無駄だ、いや、そうじゃない、出来ない。それだけだ。だって、ここで槍兵を陥れてしまっては、もう。
ぐいと唇を割って入りこんできた靴先は、まるで中の熱さとやわらかさを味わうように押しこまれる。本当に、情事のようだ。弓兵は笑いたくなった。けれど、上手く笑えずに引きつった笑いになる。
「狭いなァ」
同じことを思っていたのか、くつくつと男は笑うと靴先を引き抜いた。その間際に奥まで押しこんでいくことを忘れずに。
「あ」
思わず、声が漏れた。瞬間ぽかりと空いた空白がたまらなくせつなかった。地に這った聖骸布を引きずって引いていく靴先を追いかければ、槍兵は弓兵の顔を覗きこむようにして。
「口寂しいのか?」
嘲笑うように、そう告げた。
「ほらよ」
また与えられたものに、弓兵は手を伸ばす。
ぴちゃ、くちゅと濡れた音が辺りにしばらく響き渡った。
「なあ」
靄の中にいる。
「なあ、おい」
ぼんやりとすべては。
「なあ、おい、弓兵よ」
―――――遠い。
ちゅるん、と音がして、弓兵の口元を、顎を唾液が伝った。
それを靴先で拭い取りながら、槍兵は言う。
「ここ。ここだよ。見てみな」
そう言われて指し示された箇所を見てみると、唾液にてらてらと光る銀色。
槍兵は端正な顔をいびつに崩し、なおも笑う。
「おまえがきれいに磨いてくれたからな。よく、映ってるぜ」
―――――映る?一体、なにが?
弓兵はのろのろとその銀色を覗きこんでみた。そこには。
「……な? よおく、見えるだろ? おまえのだらしねえ顔が、よ」


淫蕩に歪んだ、弓兵自身の顔が映りこんでいたのだった。



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