「これは――――」
胎動する赤黒い闇。
生温いあたたかさに満たされたそこは、けれどどうしようもなく底冷えしていた。ずずん、ずん、とどこかで何かが崩れていく音がして、普通の人間ならいるだけで精神が不安定になるはずだ。
いや。
「ここにいるだけで死んでいる、か」
かつて聖杯の器となった呪われた少女はもうここにはいない。歪んだ四日間も無事解決し、サーヴァントたちも何故だか現界したままでいる。出来すぎたほど呑気な日常。だがそれを、“これ”が破った。
弓兵は空手でぎょろぎょろ動く目玉のようなものを見上げる。背の高い彼だがさすがに最上までは届かない。もちろんいつでも夫婦剣を投影出来る状態で彼は、忙しく動き回るそれを見ていた。
冬木の大空洞。
柳桐寺の地下にある、聖杯が成るに相応しい場所。
だが聖杯は穢れているのだ。隅々までくまなく、きっちりと。だから。
……だから。
「ッ!」


そこから男が独り、出てきたのは弓兵にとって悪い状況でしかなかった。


(心臓に――――穴? 馬鹿な、それで現界していられるわけが……それにしても……)
このむせ返るような気配は何だろう。甘い毒のような、苦い蜜のような、舌に乗せただけで爛れそうなその味。
ずるり、ずるり、と足を引きずりながら男は歩いてくる。近づいてくるにつれてその全貌が明らかになっていく。
血塗れのその体。
方々に跳ねた癖のある黒髪。
整っていたであろう鬼相。
そしてひときわ目を惹くのは――――左胸に穿たれた、大きな穴。
間違いなくあれは即死の原因となるものだ。だって、いくらサーヴァントと言えども元は人間と同じようなもの。
それに筋力や敏捷といったスペックを上乗せして戦えるカタチにしているのだ。それだから、生きるための器官を壊されればあっけなく死んでしまう。
なのにあれは、男は、生きて、動いている。
確実に弓兵の方に向かってきている。
酔漢のような足取りで、見てみれば足元にめいいっぱいの泥たちを引き連れて。
なんて酔狂なパレードだろうと視界のファインダーに男の全貌を収めて思う。もはや体は臨戦態勢、いつでも投影は可能だ。魔力は練り上げられ、てのひらがほんのりと熱い。
「ア」
ふと、音が転がった。
「ア、アアア、ア、ア」
甲高く低い、矛盾した音が男の口から放たれる怨嗟だと弓兵が気付いたのは、男が引き連れていた泥のうちの一束が素早く飛びかかってきてからだった。
「アアアアアッ!!」
男は、泣いていた。
その涙は赤い血涙で、ぼたぼたと落ちては男の形相を彩る。息が詰まるほどの血臭はしかし、男にとてもよく似合っていた。
「くっ……こ、の!」
弓兵は毒づいて抵抗してみるが、泥は弓兵の左足を拘束したまま離さない。そうして地面に引き倒して自由を奪って、ただただ友であり、また主である男が弓兵に歩み寄るのをおとなしく待っていた。
ぐちゃり。
無造作に男が弓兵の顔に手で触れて、べったりとてのひらがたの跡を残していく。まるで子供の手遊びだ。
それならば弓兵は玩具か?それとも母親か何か?まさか。
冗談のようにそうやってマスターや他のサーヴァントたちにからかわれたのを思い出してまた忌々しく思うが、今はそんな時ではない。
「呪ッテヤル」
男は恫喝するような声で言った。依然ぼたぼたと涙を落としながら。
「貴様ラ全員ヲ呪ッテヤル。死ネ死ネ死ネ死ネ死ンデシマエ。俺ノ怒リノ業火ニ焼カレナガラ地獄ノ釜ニ落チルガイイ……!!」
死ね、死ね、死ね、死ね。怨嗟の声が朗々と大空洞に響いて同時に弓兵の鼓膜をも犯す。ちっ、と舌打ちして弓兵はその嘆きを無理矢理振り払うと自由になっていた手に剣を握ろうと目論んだ。
カッ、と眩い光が差して、その場のハイライトが一瞬だけおかしくなる。……上手く行った、剣の投影は成功。
続いてこれを……これを?
刹那過ぎった迷い、それを捨てて男の血塗れの体に剣を突き立てる。だが剣はさながら泥に沈み込むかのようにずぶずぶと飲み込まれていく。やがて男を貫通して、剣はカランと音を立てて弓兵の手から落ちた。
「……あ」
死ね、と連呼していた男が無言で弓兵を見下ろしている。その両眼から流れる血涙は雨のように降って弓兵の顔を、髪を、概念武装をも汚していく。
伸ばされた手は、首を絞めるでもなく腕を引きちぎるでもなく、弓兵の体をきつくきつくかき抱いていた。
「……ドウシテ」
ぽつり、と男が弓兵の耳元でつぶやく。
「ドウシテ、誰モ、俺ノ祈リヲ聞キトゲテクレナインダ。コンナニモ、コンナニモ俺ハ」
望んでいるのに、と。
ただそれだけなのに、と主張して、男は泣いた。泣きながら弓兵の髪に鼻先をすり寄せ、白銀のそれを鉄錆色に汚した。
その間にも泥たちは意思を持っているかのように動き、弓兵の自由を奪っていく。泥と男の双方から責められて苦痛の声が弓兵の口から上がったが、男はそれを聞いたかどうか。
ただただ、男は呪いを、願いを吐きだすだけの自動人形に成り果ててしまったのかもしれない。だから心臓がなくても大丈夫。
螺子を巻いて放っておけば、いついつまでもいつまでも、螺子が巻き終わるまで呪いを願いを吐き出し続ける。
「――――ッ」
首筋に吐息。それは当たり前に生温かく弓兵の褐色の肌を湿らせ、びくんと彼がその体を揺らす前に男が半端に開いた唇を奪っていた。
「ん、ううっ、ん、く、」
男は呼吸など必要ともしないのか、血の味がするくちづけは長く続いた。両手はもはや泥に拘束されきって、男の胸を押し返すことさえ叶わない。
「ッ、ぷ、はっ、」
甘く、苦いくちづけ。ようやっと男から解放された弓兵はだが、それでこの状況が終わることなどないと悟っていた。


「君……は……そうか、それで……」


サーヴァント同士は時折、深い接触で互いの記憶を読み取ることがある。今、弓兵の身に起こっているのがその現象だった。そう、目の前にいる血塗れの男はやはり元はサーヴァントだったのだ。
“あ……”
呆然とした男の声。それはすぐさま血を吐きだすごぽりという音に濁る。心臓に深々と突き立つは己の愛槍、その名はゲイ・ジャルグ。
フィオナ騎士団、ディルムッド・オディナ。
それが、この男の真名だった。
辺りを見回す男の視界から、弓兵はいつか自分を育ててくれた養父の姿を見る。その姿はすぐさま血に濁って、血に、血に血に血に血に血に血に血に血に――――!!
「済ま、ない」
詫びてももう、どうしようもならない。
けれどそうしたくて、弓兵はそうした。胸に未だ魔槍が突き立った規視感が取れなくて心臓がちくちくする。
優男が怒りのあまり鬼の形相に歪み、この世の全てを呪って消えていったところまでを弓兵は追体験した。何もかも、何もかも何もかも何もかも何もかも憎かった。
座で独り、“自分”を憎んでいたあの頃と同じ。
「辛かったんだな、君、も」
いつしか両腕を拘束していた泥は柔らかく融けていて、だから弓兵は男の頬に触れられた。
白い肌を未だぱたぱたと汚していく血涙はきっと尽きることなどない。
「苦しかったんだ、な、」
弓兵の視界が赤くなっていく。目の中にまで男の涙は入ってきて、鋼色のそれに違和感を混じらせた。
「……辛かった」
男は。
「俺は、どうして」
狂気を確かに残したままで、それでいて途方に暮れた子供のような顔で言う。


「俺は、どうしてたったひとつの願いすら、叶えることが出来ないんだろう」


そんなことを、男が言うから。
「好きなように、するといい」
「…………」
「したいことがあるんだろう? そういう目をしているよ」
笑って。
みっともなくない程度に笑って、弓兵は言ってみせた。
「――――ッ」
すると男の顔はくしゃりと歪んで、血涙はぼたぼたぼた――――と、弓兵の顔に降りかかってきて。
再び男は弓兵の体を、その腕の中にかき抱いたのだった。


俺は誰かを愛することが出来ない。
そんなことはないだろう。
出来ないんだ。いつも上手く行かない。
大丈夫だよ。自信を持てとは言わないが、いつか出来るようになるさ。
でも、俺は何度も何度も失敗して、
……もう、黙って。


「黙って、集中したまえ」
そう言えば突き上げが強く激しくなり、弓兵は喘ぎを上げ身を捩らせる。けれどその身は男に抱きすくめられていて、そう上手くは行かなかった。
たまらずに男の体に縋ろうと腕を回すが、肌に触れるだけで指は突き抜け男の体に穴を開ける。男の体はきっと、泥と呪いで出来ているのだ。それだから触れられない。
「あっ、く、ぁ、」
「……ふ、っ」
「ん! っ、ああっ、は! ……っ」
必要以上に粘着質な音が下半身の方から響いてきて羞恥心は確かにあったが、それよりも今は目の前の男を癒してやりたかった。自分とよく似た男を。願いを、ほんのささやかなそれを叶えることが出来なかった彼を。
互いの体の間に挟まれた弓兵自身は勃ち上がって蜜をこぼしている、それを泥が啜って飲み込んでいく。それが彼の救いに少しでもなるだろうか、この体を重ねたという記録は、記憶は、彼のためになるだろうか。
自分には何も許されていない、という観念で形成されてしまった独りの男のために、なるだろうか。
泣きながら男は弓兵を抱く。涙はいつまで経っても尽きることがない。だから男は泣きながら弓兵を抱く。それが、尽きて。
男が泣くことを止められたのなら。
いつか。
「――――〜ッ、!、 ッ!」
びくんびくん、と体を震わせ先に弓兵は達してしまう。快楽に慣れていない体はた易くそれに屈してしまった。
苦痛ならばいついつまでも耐え続ける自信があるのだけど、などと埒もないことを考えていると、男が声を詰まらせて、
「ん……く……っ!」
「あ……!」
その瞬間、激しく熱いものが弓兵の内を叩き、思わず声を上げてしまう。はっ、と漏れた吐息に空間が湿る。
弓兵は崩れ落ちるように体勢を崩して、とっさに体を支えようとしてその辺にあるものに縋ろうとして。


確かな感触が指先に触れる、それにわずかばかり驚いて弓兵は顔を上げる。
そこには。
そこには、ああ、そこには――――。




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