赤い光点が見える。ざわざわざわざわざわ、なんでもない無害な人の中にいくつかまじっているそれら。
子供が望遠鏡を覗きこむように真剣な目で眼下を見張っていた弓兵に、座りこんで壁によりかかった槍兵はたずねた。その腹には大穴が開いている。ところどころ欠けてぼろぼろになったコンクリートはかすかに埃と排気ガスの臭いがして、甘ったるくて頭が痛くなる。
「どうだ」
「―――――いるな。質はそう高くはないが、数は多い」
「そうか」
「それより、そちらの経過は?」
「よくねえな。……ゴミ掃除間近だってのに、ついてねえ」
「ふむ」
弓兵は屋上の縁から踵を返すと、概念武装をひるがえして歩いてきた。大股で槍兵に近づく。裾が汚れることなど気にせずに跪くと手をなんの前置きもなく傷の中に差し入れた。
「―――――っぐ、あ」
「内臓損傷……血液不足……結果、治癒力減少……確かに、よくないな」
抜き取る。しぶきのように新しい赤い血が飛んで、弓兵の頬を汚した。いや、この表現は違う。弓兵はその血をどす黒い体液にまみれた指先で掬い取ると、長くひらめかせた舌で丁寧に舐め取ったのだから。
それだけでは足りなかったのかくぐもった声を上げて口内に自らの指を含み、濡らし、啜る。喉を鳴らして鉄の味がする唾液を飲み下すと、褐色を取り戻した指先で再び頬に触れた。
繰り返すと赤と黒に染まっていた褐色が徐々にあらわになっていく。凝り固まったものが溶けていくような感触に、弓兵は淡く喘いだ。
喉の奥が熱くて重い。槍兵はそれをじっと見ていた。
「……ん……」
他人の体液と自らの体液で濡れた頬をそのままに、あらかたの汚れを拭い終えた弓兵は槍兵の頭を引き寄せる。
まぶたを閉じる暇も惜しいと言わんばかりの性急さかと思いきや、舌で乾いた唇を潤して湿して、指先では項を撫でる。槍兵は目を閉じずにじっと同じように己を見つめる鋼色の瞳を見つめ返す。
垂れ下がった手は重く、動かす気がしない。忍びこんできた舌をようやっとで絡め取って唾液を奪うと音を立てて飲み下した。
じんわりと腹の底が暖かくなる。しかしまだ足りない。
「よこせと言う前によこすとは、わかってるじゃねえか」
「今ここで君に斃れてもらっては困る。それに」
「それに?」
「君の諸々の味は好ましい」
役得だ、とつぶやくと再び唇を合わせる。今度は槍兵も手を伸ばして弓兵の後頭部を掴んだ。
犬歯で柔い口内を傷つけて血を滲ませ、啜る。そのあいだにも唾液の交換は欠かさない。互いに貪りすぎて斃れてしまっては困る、なにごともほどほどにだ。
だが困ったことに二人とも吸血種ではなかったが、体液の味は甘美だった。傷の回復のためにつなげた回線がさらにその美味さをあおる気がする。ち、と舌打ちをして、槍兵は唇を離した。
「舐めろ」
性急に言う。塞がりかけてはいるがまだ疼く患部を指して。
「眩んだか?」
「時間がかかる。直に傷口から受け取った方が要領得るだろ」
「了解した」
簡潔に答えると弓兵は涎に濡れた口元を拭って血が溢れる傷口にくちづけた。とたん、痛むのか頭上から声がしたが、気にせず舌を差しこむ。唾液を媒介にしてつなげる。低く呻く槍兵の声が寒々とした空に流れて雲と消えていった。
先程のように丁寧に弓兵は舌を使った。溢れる血を飲み、代わりに力を乗せた唾液を流しこむ。上手いこと均衡を取るように吸いすぎず、吸われすぎず、それなので互いの体は同じように熱くなっていった。
「……―――――ふ……」
「ん、んっ……」
「は、っ」
笑うと、槍兵は傷口に弓兵の頭を押しつける。
「もうだいぶよくなってきた。上手いな、おまえ」
「御子殿に誉めていただけて光栄だよ」
「ああ、自信を持てよ自慢のオレのこいびと?」
「……誰が恋人だね」
「おまえだよ」
このオレに愛されているのだから、と傷口から引き離し、血と唾液にまみれた顔を眺めた。
「自信ならあるさ。なにしろ君の相棒をつとめられているのだからな」
「かわいいこと言いやがる」
ぬらり、と舌が這わされた。先程弓兵がやったことを今度は槍兵がやる。音を立て透明な唾液に薄まった赤黒い血を舐め取り、喉を鳴らして飲みこむ。弓兵は目を開けたままそれを眺めていた。
まぶたを閉じれば引きこまれる。
斃れるわけには行かない。
「よし。完了した」
言って槍兵は顔を離す。血の跡はすっかり弓兵の顔からぬぐいさられていて、濡れたところは槍兵が己の腕で綺麗に拭いてやった。
見れば、傷跡も完全にとは行かないが塞がっている。
「行けるか」
「応よ」
立ち上がって伸びをした槍兵は、壮絶に笑う。
「礼はしてやろうぜ。たっぷりとよ」
「あまりやりすぎるなよ」
「なに、半殺しを皆殺しにするくらいだ。苦しまずに済ませてやるんだ、優しいだろ?」
「元から駆逐するつもりだったのだろう」
「はは。ばれてたか」
弓兵は、概念武装の埃を払うとなんでもないように告げた。
「ああ。私は、君の相棒であり、恋人だからな」
お見通しだよ、と弓を引くしぐさ。
槍兵はその背を眺めると、一度二度まばたきをした。それから、おおげさに噴きだす。
「かなわねえな」


「―――――それでは?」
「清く正しく美しく」
「街の秩序を護るため」
「それと、オレの心の平穏を保つため」
「……行こうか」
先に落下した弓兵に、ああっ、と声を上げて槍兵が後を追う。
「ったくおまえは、付き合いが悪りぃな……」
声と姿が消えていく。
血に汚れていたはずの屋上は、実にきれいに清められていて痕跡などかけらも残されていなかった。



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