その少年の名前はセタンタといった。幼くとも、槍の武術を代々受け継ぐ宗家の次期当主様である。今現在の当主はセタンタの兄でその名をクー・フーリンといった。もっとも彼は当主仕事についてやる気などまったくなく、ほとんどをセタンタとその教育係に任せていたが。
自分は“ランサー”などと名乗り、当主様の仕事など知りませんといった風だ。
風といえば、クー・フーリン、いや、ランサーは本当に風のような男である。その性格もさることながら身のこなしもまるで疾風。たまたま宗家に帰ってきたかと思えば教育係やセタンタをからかって好き放題して去っていく。護衛たちが走って彼の捕獲に訪れたときには、もう、赤い頬をふくまらせて地団太を踏むセタンタをなだめるように抱きしめる教育係の姿しかなかった。
セタンタは今の教育係が大好きだ。名をエミヤというが、弓の名手であるためもっぱら“アーチャー”で通っている。教育係、兼セタンタの側近である彼に身の危険は多い。命を狙われることもある家業であるのだから仕方ないと言ってエミヤは笑うけれど、それを見るたびにセタンタは思うのだ。
もっと強くなって、守られるのではなく自分が彼を守ってやりたい、と。
「エミヤ!」
小学校から帰ってくると玄関で靴をもどかしく脱ぎ捨て、セタンタは家の中に駆けこむ。この家で、エミヤのいるところといえば…………。
「セタンタ」
「ただいま」
軽く驚いたように目を丸くする、その抱きつき慣れた腰にぎゅうっとしがみつく。背伸びをしてもちょっと届かない高さだが、当のエミヤ自身が身を屈めてくれていたので辛くはなかった。
エミヤがいたのは台所だ。男所帯の中、彼はここの主である。毎日、やくざのような男たちに手のこんだ美味しい料理を作り、その強面をほころばせている。
ある意味ちょっと寮母さんだ。
「今日の弁当も美味かった! 特に卵焼き。オレ、甘いの大好き!」
「そうか、よかった」
君好みに少し砂糖を多目に入れてみた、と笑う優しい顔がセタンタは大好きだ。口に入れるとふんわりとろける卵焼きより大好きだ。エミヤは困ったように笑うと、こら、と軽くセタンタの頭を叩いてコンロの火を止めた。
「いい加減に離れないか、セタンタ。まだ部屋にも戻っていないのだろう?」
「だってエミヤに会いたかったんだ!」
どこからでも帰ってきたら一番にエミヤに会いたい。そう言うとそっと離された体にもう一度しがみついて足をばたばたさせた。
だって会いたい。一番に会って、抱きしめて、ただいまを言いたい。
「セタンタ」
仕方ないな、と笑ってエミヤはセタンタを抱きしめ返してきた。ふんわりといい匂いがする。
“母”というものをセタンタは知らない。けれど充分だと思う。……エミヤがいてくれれば。
ランサーはたまに言う、セタンタのその主張を聞いて鼻で笑いながら。
―――――おまえ、母親ってもんに対する気持ちを知らねえからそんなことが言えるんだよ。
飄々としてわかったような口をきく兄が、セタンタはあまり好きではない。確かに強いし、腕は立つし、身長もずば抜けて高い(でも、エミヤよりは数センチ低いというのは気にしているらしい、ざまあみろ)。それに、エミヤによくちょっかいを出している。
しかもなれなれしくエミヤエミヤと名前を呼んで!
エミヤと呼んでいいのはオレだけだ、とセタンタはふくれる。それが独占欲だというのを、セタンタ自身はまだ知らない。
難しいことはセタンタにはよくわからない。
ただ、エミヤが好きだということだけははっきりしている。
「なあ、エミヤ」
はつらつと名を呼べば、エミヤは不思議そうに首をかしげて目でたずねてくる。それに笑いかけるとセタンタはちょいちょいと指先でその顔を近くに呼び寄せた。
「好きだぜ、オレのエミヤ」
「!」
頬にキスされたエミヤは褐色の肌を赤く染めると、素早く身を引いた。セタンタはそんなエミヤの素の表情が大好きだ。なので余計にっこりと笑う。
太陽のような笑顔だと、エミヤに誉められた笑顔で。
「まったく……」
ため息をつくと、エミヤはセタンタに目線を合わせた姿勢のままで、はかなくにこりと微笑んだ。


「私も君が好きだ。……私の、大事なセタンタ?」



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