それは遠い日の話だ。


「エミヤ!」
背後からの快活な声に、エミヤと呼ばれた少年は振り向く。―――――その前にどさりと背中に抱きつかれて勢いのまま草の上に転んでしまった。甘く青くさい匂い。読んでいた本は転げ落ちて、ページに挟んでいた栞もどこかへ行ってしまった。
「君! いつも、声をかけるときはもう少し静かにと……」
「ああ、そんなことも言ったっけな? 悪い、忘れてた」
「忘れていたとかな……」
ため息をつくエミヤに、少年は笑いかける。屈託のない笑みに思わず眉間の皺も消えてしまった。
抱きついてきた少年の背には青い空。少年の髪も同じくどこまでも美しい青色だ。少年の名はクー・フーリンという。エミヤとは、幼いころからの付き合いでいわゆる幼なじみという奴だ。
「そういえば君、稽古や家の仕事があるのだろう。出てきてしまってかまわないのか?」
「ん、そんなもんもあったけど、無視して出てきちまった」
「なっ……」
「だってよ、母さんも身重で家の中バタバタしてるしさ。誰も気づかねえよ。あ、そういえばわかったんだぜ。オレにできるの弟だって!」
これで次期当主の座はそいつに預けてオレは遊びまわれるぜ、と笑うクー・フーリンに、エミヤは呆れたような視線を向けた。赤い革の表紙の本は、とっくに閉じて膝の上に置いてある。エミヤは本を読むのが好きだったが、クー・フーリンと話すのはもっと好きだった。
快活な彼と話していると自分も元気になれる気がする、というのは実は内緒のことである。なんとなく胸に大事にしまっておきたい事実だったのだ。
クー・フーリンは気づいているのかいないのか、エミヤと同じく膝に置いた手をばたばたとせわしなく動かしながら機関銃のように話しつづける。二人でいるときはエミヤが話を聞き、クー・フーリンが喋るというのが常だった。ときおり、エミヤが的確な相槌を打ち、話はずっと終わらぬかのごとくつづいていく。
「名前も、もう決めてあるらしいぜ」
「ほう」
「セタンタだと」
「セタンタか。いい名前だ」
「オレもそう思う。へへ、一緒だな」
まったく、クー・フーリンはよく笑う。昔は寡黙だったエミヤも彼につられてよく笑うようになった。覚えているだろうか、彼は?
初めて出会ったころ、警戒心を丸出しにして、しかし無表情だったエミヤのことを。
“エミヤっていうのか。よろしくな!”
返事をしないエミヤの手をつかんで戸惑うエミヤに笑いかけ、外に遊びに行こうぜとあっけらかんと誘った。ぐいと引かれて半ば強引に近くの森へと連れ出され、手にしていた本はその場に置き去りにされた。
あの本はもう、どこへ行ってしまったのかわからない。
「エミヤ」
「うん?」
答えると、クー・フーリンはぎゅうと手を握ってきた。熱い手。エミヤは驚いたように目を丸くして彼の顔を見る。少し背の高い、彼の真剣なまなざし。
「オレたち、ずっと仲良しだよな!」
エミヤは瞬きをした。そのたびに睫毛が揺れる。しばらくしてから、……エミヤ?と心配そうに首をかしげるクー・フーリンに軽く噴きだして怪訝な顔をさせてから、エミヤは微笑んだ。
「ああ。ずっと私たちは一緒だ。クー・フーリン」


「またオレたちの邪魔しにきたのかよ、このダメ兄貴! 女ったらし! 聞いたぞ、商店街でまた女に声かけてたって!」
「違うってバカ。あれは荷物が重そうだから持ってやってただけだ……って誰に聞いた? その話」
「エミヤにもう近づかないって約束したら教えてやる」
「ああ、じゃあいらねえ」
そんな情報エミヤに比べればカスだ、とあっさりと言ってのけた兄に、弟はだんだんと足を踏み鳴らす。ばーかーあーにーきー!甲高い声が道場に響き渡って、げらげらと笑う兄の声がそれに重なった。
仲が良いのか悪いのか。奇しくも話題の中心となったエミヤはこっそり気づかないように苦笑すると、年の離れているくせにとてもよく似た二人の兄弟の姿を眺めた。
青い髪、赤い目、結ばれたしっぽ。兄、ランサー……クー・フーリンは金の髪留めで、弟セタンタは赤いリボンでそれぞれ髪をまとめている。ちなみにセタンタの髪は毎朝エミヤが丹精こめて梳かしてやり、丁寧に結ってやっていた。
短いしっぽは子犬のようでとてもかわいらしい。
「「エミヤ!」」
突如ユニゾンで名前を呼ばれ、エミヤは目を丸くする。ふと気づけば兄と弟の二人が間近まで詰め寄っていてじっとエミヤを見ていた。その形相にぱちくり、と瞬きをする。
「……なんだろうか」
「エミヤ、エミヤはオレのことが好きだよな! エミヤはオレだけのものなんだもんな!」
「なあ、こいつに教えてやれよエミヤ。おまえはずっと昔からオレのものだって。なんてたって年期が違うぜ、年期がよ」
「そんなのずるいぞ! ただ兄貴なんてちょっとオレより先に生まれただけじゃないか、オレだって兄貴と同い年だったら絶対エミヤのことモノにしてた!」
「十年以上がちょっとかよ。あーあーあー、いいからガキはおとなしく学校でカノジョでも作ってろ、な?」
何人でも、と兄が言うと、弟は顔を真っ赤にして叫んだ。
「オレは兄貴とは違う!」
「まったくだ」
「だよな!」
あの日の彼に対する自分よりはるかに低い位置にある頭を撫でてうなずくと、弟は満足そうにきらきらとした目を向けてきた。だよな、だよなエミヤ、さすがだよな、オレのことわかってくれてるんだよな!
その喋り方がまるで昔の彼とそっくりで、エミヤは声を上げて笑い出してしまった。
「エミヤ?」
「どうした」
不思議そうに聞いてくる兄弟にああ、と首を振る。
「―――――なんでもない」
自分は実に幸せだ、と思う。
青い空、白い雲、何年たっても色あせない遠い日の記憶(しあわせ)。それが今もここにある。
小さく笑いつづけるエミヤを不思議そうに見つめてみた兄弟は、しばらくしてからまあ、それでいいか、というようによく似た顔を緩ませてとてもよく似た顔で笑った。



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