「ねえ、キスってしたことある?」


セタンタは息を切らせて走っていた。走るのが好きな彼、クラスでのみならず学校でも最速の彼が、息を切らせて。
自宅はもうすぐだ。た、た、た、と軽いリズムで足を前に出しながらも息は乱れる。動揺が出ているのだ―――――が、セタンタはまだそんなことは知らなかった。
「エミヤ!」
ばん、と玄関に飛びこんで、叫ぶ。掃き掃除をしていたごつい護衛がびくっと体を揺らしていたがなに、かまうことはない。エミヤ第一、エミヤエミヤ、である。靴を脱ぎ散らかして(普段のセタンタらしくなく)中に入るとセタンタはエミヤの部屋へと一気に走りだした。
坊ちゃん廊下は走らないようにとアーチャーさんが―――――そんな声は風と共に流れて消える。
「セタンタ」
滑りこむように勢いよく襖を開けると、少し眉を寄せたエミヤが出迎えてくれた。玄関と廊下での騒動を知ってのことだろう。彼は聡い。しかしセタンタは臆することなく口を開いた。
「ただいま!」
「あ? あ、ああ……おかえり。今日も無事でなによりだ」
帰宅の挨拶は欠かさないセタンタだった。エミヤは毒気を抜かれたようにいつも通り挨拶を返す。今日も無事でなにより。だが、様子は明らかにおかしいセタンタ。飛びこんでくるのを抱きとめるために手を広げていいのか、どうか。彼は迷っていた。
「エミヤ!」
「どうした」
赤い瞳が輝いている。期待と不安に。
セタンタは叫んだ。
「オレたち、キスしたよな!」
その声は邸宅中に響き渡り、先程の護衛はパプシと派手な音を立ててなにかを口から噴きだした。


「なんで」
「そういうことは軽々しく口にしてはいけない」
「だからなんで」
「だからその……はしたないし、みっともないからだ」
「なんでみっともないの」
いいことだってオレ聞いた!と正座させられながらセタンタが語るには、こうである。
昼休み、セタンタは体育館の裏に呼びだされた。下駄箱に手紙が入っていたのだ。セタンタは目立つ。そういうことはよくも悪くもざらだ。けれど今回は良い方だったらしい。そこでエミヤはほっと胸を撫で下ろした。さて、話に戻ろう。
セタンタを待っていたのは最上級生、六年生の少女だった。長い髪がきれいだった、とセタンタは言う。あ、だけどオレはエミヤの髪が一番好きだからな、とああ、これでは話が進まない。セタンタのエミヤ論は省くことにしよう。
その少女はたいそう大人びていて、セタンタを見るとモデルのようなポーズを取り、にこ、と笑った。待ってたの。そう言って愛らしく。 ここまで来れば大体はわかるだろうか?もちろんエミヤは察した。そう。彼女の目的といえば、告白だ。
わたしあなたがすきよ、と彼女は率直に切りだした。わたしあなたがすき。あなたは?
セタンタは言った。オレ、すきなやつがいる。
そう、それはわたしじゃないのね?うん、ちがう。そう。
ずいぶんと大人びた少女だとエミヤは思った。動揺することもなく錯乱することもなく。だけれどそういう少女の方が本当はおそろしいのかもしれない。
なにせ、こんな騒動を持ってきたのだから。
「で、そいつ、言ったんだ」
ねえ、あなたキスしたことある?
「それで……君はなんと」
「あるって言った。だってキスしただろ、オレたち」
エミヤは額に手を当てた。頬が赤くなる。……そうだ、確かに。いや、その、額にキスだとか、そういうものは何度もした。している。
けれど、一度だけ。公園で……そう、公園で、一度だけ。
このくちびるに。
あの時は本当に愛しく思ってしたことだが、今考えると問題である。はしたない。破廉恥だ。
「な、したよな。したよな、オレたち。デコとかほっぺたとかじゃなくて、口にちゃんと、したよな!」
「セ、セタンタ、」
「でもさ、そいつ言ったんだ」
セタンタは真面目な顔をして言った。エミヤの肩を、逃げられないようにぐっと掴んで。
「あなたからはしたことないの、って」
しん、と沈黙が落ちる。エミヤは目を見開いた。
「あれ、エミヤからだったよな。あ、もちろんうれしかったぜ。でも、オレ、一度もエミヤの口にキスしたこと、ない」
「セタンタ―――――」
「そいつ言ってた。好きな相手にはするもんだって」
「セタンタ」
「……してもいいよな、エミヤ?」
「セタンタ!」
もはや名を呼ぶことしかできないエミヤに、セタンタは顔を近づけてくる。エミヤ。怖がるなよ。いっぱしの大人のような言葉を吐いて。突き放してしまうことは確かに出来る。でもそれは一番してはいけないことだ。エミヤは顔を赤くしたまま動けない。小さくても整った顔が近づいてくるのを待つことしか出来ない。エミヤ。すきだ。その声にびくんと体を震わせると、エミヤは、
「ってなにやってんだ、このクソガキ」
突如聞こえた声と、思い切り蹴り倒されたセタンタを同時に認識して盛大に混乱した。


セタンタの頭のこぶを手当てしてやりながら、エミヤはまだ熱い頬を持て余していた。膝の上のセタンタはものすっ、ごく機嫌が悪くていらっしゃるらしく、それでもエミヤの膝の上だからか、おとなしくしてくれてはいた。
ちなみにしっぽは剣呑に逆立っている。
「ったくよ……思いつめたあげくに抵抗出来ない相手を襲うたあ、おまえも地に堕ちたもんだ」
オレの弟とは思えねえ。煙草のフィルタを噛み、紫煙を吐きだすランサーをセタンタはぎっと睨みつけた。
「人をいきなり蹴り倒したケダモノ兄貴に言われたくねえ!」
「馬鹿野郎。言葉であのときのおまえが止まったか? 止まらねえだろ。だったら実力行使しかねえじゃねえか。それに、ケダモノって言葉はあのときの自分に言ってやるんだな」
「…………っ」
「ラ、ランサー」
「おまえは黙ってろ。こういうことはちゃんと教えてやらないとならねえ時がある。それが今だ」
ぎゅ、と手で煙草を握りつぶすとランサーは真面目な顔でそう言い放った。エミヤは何も言えなくなってうつむいてしまう。
「エミヤをいじめるな、バカ兄貴!」
「馬鹿言ってんじゃねえ、ガキ。さっきまでエミヤを虐めてたのは誰だ? おまえだろ。オレが助けに入らなかったら、今ごろエミヤはどうなってた?」
「オレはエミヤをいじめたりなんて……」
「虐めてたんだよ。自覚がなくともな。エミヤの顔見てみろ」
セタンタは振り返りエミヤを見る。エミヤはとてもその顔が見れなくて、真っ赤になってうつむいた。
「エミヤ……」
「ほれ見ろ。怖ええよな、自覚がないってのはな」
オレも……と言いかけてランサーは言葉を呑む。それはいい、とつぶやいて、セタンタの正面にしゃがみこんだ。真正面から兄は弟の顔を見つめる。
「色事が苦手なエミヤにかわって、オレが教えてやる。いいか。確かにキスってのは好きな相手にするもんだ。……だがな、無理強いはよくねえ。そういうことは同意の上でやれ。でないとてめえは最低の野郎に成り下がる」
「…………!」
「それだけだ。わかったか」
わかったなら返事しろ。そうつぶやいた兄に、弟は目を見開いたままだ。ち、と兄は舌打ちをする。
「実地じゃねえとわからねえか」
エミヤは、顎をとらえられて反応する。ランサー、と名前を呼びかけてその真剣なまなざしに軽く絶望した。セタンタはまだ動けないでいる。その、目の前で。冗談のようなことは何度もあったけれど―――――これは駄目だ。
いけない。
「ラ、ンサー、いやだ……!」
しかしランサーは黙ったまま顔を近づけてくる。先程の再現のように、整った顔がゆっくりと。
近づいて。
「やめろ!」
吠えた。
セタンタは吠えて、エミヤの膝の上から飛び降りるとランサーの腹に一撃蹴りを食らわせていた。それでランサーの手はエミヤの顎から外れる。簡単に、あっけなく。
腹部への衝撃は意外に効いたのか、咳きこんで、ランサーは低く笑う。
「……わかったか?」
「あ……」
「おまえがしようとしたのはこういうことだ。どうだ? これがしていいことか?」
「……だめだ」
「だろ?」
セタンタは目を見開いたままこくこく、とうなずく。そして兄に向かって頭を下げた。
「兄貴、……ありがとな!」
その素直な言葉に、ランサーは目を丸くする。しばらくその端正な顔を間抜けに崩してから、にかり、と優しく微笑んだ。
「おう」
エミヤはその光景をぼうっと見ていた。なんだか、泣きそうになりながら。その腰にセタンタが抱きついてくる。
条件反射のように、エミヤはその背を撫でた。
「……ごめんな」
謝る声に、エミヤは泣き笑いのような表情を浮かべた。


「驚いたぞ、たわけが」



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