もうすぐはーるですねー。
少し調子の外れた歌声が聞こえてくる。そして玄関を開ける音。ランドセルを脱ぎ捨て、走ってくる。
「ただいまエミヤ!」
書類を脇に片付け、眼鏡をずらしたエミヤは微笑む。
「おかえり、セタンタ」
そうして手を広げると、呆れるほどのまっすぐさでセタンタはエミヤの胸へと飛びこんできた。
青い髪は太陽の匂い。すうと吸いこめばくすぐったそうに胸元に顔を押しつけるセタンタの笑い声がする。ばたばたとバタ足する足は、少し大きくなったのだと言って誇らしげに胸を張っていた。上履きを買いかえねばなとつぶやくエミヤの足元で、うれしそうにしていたっけ。
「ところでセタンタ」
「ん?」
呼ばれて顔を上げる。薔薇色の頬はいつもより紅潮していた。髪に結んだ赤いリボンよりも赤く。
「さっきの歌はどうした? 誰かから習ったのか?」
「ん、学校の音楽の先生から! 授業でやったんだ」
なるほど、とエミヤは華やかな音楽担当の教師を思い浮かべる。彼女ならば教科書に載っていない歌も子供たちに教えるだろう、自らが良しと思ったものなら。
もうすぐ春ですね。
暦の上では三月一日は立派な春だ。つい先日強い風が吹いて、電車が止まったりといろいろなことが起きたが思えばあれが春一番だったのだ。
目を覚ましてみれば、日付をまたいだだけなのにがらりと空気が変わっていて、エミヤをしばし物思いに耽らせた。
「春っていいよな、エミヤ」
「ああ。セタンタ、君は春が好きかな?」
「好きだ!」
あったかいし、動物たちも元気になるし、きれいな花もいっぱい咲くし。
そう指折り数えたセタンタは、はっとしたような顔でポケットをまさぐる。
「エミヤ、これ」
差しだされたのは小さな花輪。指輪には大きく、頭に乗せるには小さく。セタンタは照れたように頬をかいて笑って、
「本当は冠にしてエミヤにやろうと思ったんだけど。時間が足りなかったんだ」
あと、オレ、そんなに手先器用じゃないし。
終始笑顔でそう言うセタンタがいとしくて、さらされた額にゆっくりと唇を押し当てると、エミヤはその小さな頭を撫でた。
「そんなことはない。ありがとう、セタンタ。うれしい贈り物だ」
花輪からはかすかに甘い香り。素朴なその香りを吸いこんだエミヤは、セタンタがぽうっとした目で自分を見つめているのに気づく。
目と口をぽかんと丸く開けて見ている。頬は先程よりさらに赤い。
「セタンタ?」
エミヤが手を伸ばせば、我に返ったようにセタンタは正座をして飛び上がった。しっぽはびょいんと逆立って硬直している。ときおり、細かくぷるぷると震えた。
「どうかしたか?」
「なんでもない!」
大きく張り上げた声にエミヤは首がかしげると、セタンタは慌ててその手に乗った花輪を取り、エミヤの頭に乗せた。
小さなそれは本当に本当に小さかったけれど。
セタンタの心がこめられていた。
ふたりで微笑みあっていると、開け放たれた戸からランサーが顔を出した。
「よおエミヤ。―――――ガキは頭あったかそうに笑ってるが、どうかしたか」
「バカ兄貴!」
邪魔が入るのはいつものこと。
ランサーは悠々とセタンタの怒声を受け流して、エミヤの頭の上に乗せられた花輪に気づく。
「なんだこりゃ」
指先でつまみあげてしげしげと眺めるランサーに、エミヤが首だけで振り返って答える。
「セタンタがくれた花輪だ。とても良い香りがする」
「へえ」
興味がなさそうにそうつぶやくと、ランサーは花輪を元の位置に戻す。そうして、
「……あーっ!!」
「ああ、確かに。こりゃいい匂いがすんな」
エミヤの髪を指先で掬い上げるようにして、目を閉じるとその匂いを嗅いだ。
「ランサー、こら!」
「バカ兄貴! エミヤから離れろ!」
「生憎とオレはこの匂いが気にいっちまったからな。しばらくは離れられねえ」
そう言って目を開け、にやりと笑ったランサーにセタンタが地団太を踏む。
ぽかぽかと暖かい春の日差しが廊下を照らす。
そこで丸まっていたこねこさんが、居間での喧騒にもかまわず小さくなあん、と和む鳴き声を上げた。



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