ただいまー、と今日もセタンタの声がする。
それが少し疲れていて、けれどそれ以上に浮かれていることを察したエミヤは眼鏡を外してくすりと笑う。
廊下を走る音が聞こえ、やがて予想したタイミングにぴったり合わせてセタンタが襖を開けて飛びこんできた。
「ただいま、エミヤ!」
「おかえり、セタンタ」
黒いランドセル、手には水色の紙袋。ただし中は空だ。黄色のクマが描かれたその紙袋を眺め、エミヤはたずねる。
「どうだったんだ?」
「ん、すごく喜んでた、みんな。特にミミなんか今度作り方教わりたいとか言ってさ、」
「そうか」
今日は三月十四日、ホワイトデー。つまりバレンタインの対の日だ。
一月前に戦利品をうなるほど持って帰ってきたセタンタは当然そのお返しを用意しなければいけなかったのだけど、小学四年生の小遣いではとても全員には用意しきれない。そこでエミヤの出番というわけだ。
だけどちゃんとセタンタも手伝ったのだ、誤解のないように言っておくけれど。セタンタとエミヤの共同作業。
きちんとラッピングしたクッキーを紙袋に山ほど詰めて朝出かけていったセタンタだったが、どうやら無事に配り終えたようである。
「あ、でも」
慌てたように顔を上げてセタンタが言う。エミヤが小首をかしげると、その膝の上に手をついて身を乗りだす格好になって顔を覗きこみ、
「ちゃんと手紙とかが入ってたのは、断ってきたから、な!」
早口で言う。だってオレが好きなのはエミヤなんだから、と当然のごとく言ってのけて。
「ほんとだぜ、ほんとだからな、エミヤ」
「わかった、わかったセタンタ。誰も君を疑ってなどいない」
「絶対?」
「絶対だ」
「ん!」
満足そうに頬を薔薇色に染めて微笑むと、セタンタはエミヤの膝の上についた手をどけた。
「で、さ。それでさ」
もじもじと、らしくなく指を絡めて話を切りだしかねているセタンタにエミヤは少し怪訝な顔を見せたが、すぐに思い当たったようだ。
「ちゃんと用意しているよ、セタンタ」
「オ……オレも!」
ぱあっと顔を上げて太陽のような笑顔を見せるセタンタがいとおしくて、エミヤは笑いだしてしまいそうになる。けれどこの子供はいま、真剣なのだからとその笑いをこらえて戸棚に用意したものを取りだした。
セタンタも自分の部屋に寄って取ってきたものをごそごそと用意する。
いっせーの、せ、で。
「クッキー!」
昨日エミヤと作った、ややいびつなそれと違って完璧に焼き上げられたそれはエミヤがひとりで用意したものだろう。
ふうわりとバニラエッセンスの匂いが漂って、セタンタは鼻をひくつかせる。
一方エミヤは手渡されたものを見て目を丸くしている。ぱちくりとまばたきを繰り返すその様子に、セタンタは得意げに、再び身を乗りだした。
「あのな、それ、こないだミミやカンタたちと出かけたときに見つけて! すっごくいいなって思ったから、それにした!」
袋の中に詰まっているのはカラフルなマシュマロ、ひとつひとつがハート型をしている。
見た目に華やかなそれはきっと、子供たちの目に輝いて映ったであろう。
「な、エミヤ、食べてみてくれよ」
「今かな?」
「うん、今!」
ぐんぐんとうなずかれて、エミヤは袋を開ける。とたんに立ちこめる甘い匂い。見慣れた白、グリーン、イエローなど様々な色をした中から、エミヤはひとつをつまみだした。
ピンクのハートは弾力に富み、エミヤにセタンタの丸くすべらかな頬を連想させた。
口に入れると強い甘味が広がる。噛まない内にそれは、やわらかく広がって雲のように溶けてしまった。
「美味い?」
期待の目でセタンタが問う。こくん、と喉を鳴らして、エミヤは笑ってうなずいた。
「ああ、ありがとう、セタンタ」
「へへ」
居間に広がる甘い香り。幸せの空気。
しかし、それを壊す者がいるのを充分にセタンタは知っていた。
「よお、エミヤ」
「……やっぱり」
なんでこの兄はいつでもタイミングよく、いや悪く現われるんだろう。
セタンタがそれを解明するのはきっともう少し先になる。
ランサーは恨みがましいセタンタの視線も気にせず、ポケットから小さな袋を取りだしてエミヤに向かって放った。
すとん。まるで引力に導かれるようにそれはエミヤの手におさまった。
「キャンディ?」
「うちの店の新商品でな。紅茶キャンディってやつだ」
「ほう」
なかなか洒落ている、とエミヤが感心したように言えば、ランサーは当然とばかりに口端を上げて笑う。
セタンタは餅のように頬をふくらませた。
「それなりに甘さ控えめに出来てる。ま、大人の味ってやつさ」
エミヤが手にしたマシュマロの袋を見て、ランサーがわざとらしく大きな声で言う。セタンタはさらに頬をふくらませた。
「なんだよ、甘いのはな、疲れたときとかいいんだぞ! 頭に!」
「誰も悪いなんて言ってねえだろ、ただガキっぽいと思っただけだ」
「―――――〜ッ、なんだよ、兄貴だって甘いの好きなくせに!」
「オレは大人だからいいんだよ」
わけのわからないことを言う兄にしっぽを逆立てたセタンタは、頭に軽くぽんぽんと手を置かれその上を見る。
するとエミヤがやさしく笑っていた。
「セタンタ。私は君の心遣いがうれしいよ、とても」
心とろかすようなその笑みにぽうっとなって、しばらく見とれていたセタンタはぱくぱく口を動かし、無言で首を縦にぶん、と振った。
そしてエミヤに抱きつく。
やっぱりエミヤがすきだ、と心の中でつぶやいて、セタンタは回した腕に力をこめたのだった。



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