廊下を駆けてくる足音。
エミヤはつい、と眼鏡を直すと正座したまま振り返る。その数十秒後だ。


「エミヤ―――――ッ!!」
絶叫と共に青い弾丸がタックルをかけてきたのは。
腹筋を鍛えておいてよかった。並みの腹筋ならば、小さくとも速度が上乗せされたこのタックルに耐えられなかったに違いない。あっけなく貫かれて大ダメージである。
……ふう、とため息をついてエミヤはぎゅうぎゅうとしがみついてくる青い弾丸、改め次期当主様の後頭部を見下ろした。
「どうした、セタンタ」
その声にばっと顔を上げるセタンタ。赤い瞳に一気にくべられるもの。燃え盛る烈火!
「キスしよう!」
時間が止まった。
「……セタンタ?」
「聞いたんだけどっ、友達に、」
ああまたあの友達か。
「昨日はキスの日だったんだって!」
セタンタはイベント事に敏感だ。エミヤも季節の行事には目を光らせる方だがそれも微妙にまたベクトルが違うものだと思う。たとえば恋愛関係のイベントにはエミヤは疎い。バレンタインデーやホワイトデーなどはさすがに知っている。だが、キスの日などと細分化されても拾いきれない。
そもそもキスの日の由来など知らぬと物思いに沈んでいると、膝に突かれた手が力を増した。
はっとエミヤは覚醒する。
「セタ、」
「きっと今からでも遅くない!」
「いや、遅い早いの問題ではなくだな……こら、セタンタ! 陽もまだ高いうちからこういったことはだな、」
「エミヤ、オレのこと好きだろ!?」
口をつぐんだ。
輝く赤い瞳。セタンタの表情は駄々をこねる子供のようでいて、その実、立派な―――――。
「しようぜ」
高い声が掠れた。えみや、と。それは反則だと混乱の内にエミヤは思う。そんな顔をされては、そんな言い方をされれば逃げられない。駄目だ。陽もまだ高いのに。親愛の情をこめたキスならかまわない、だがセタンタの望むものはきっとそれ以上だ。
それはいけない。
「眼鏡が……」
意味のない言葉を口にする。もちろん聞き入れられなかった。ぐい、と力強く。背伸び。近づけられる小さな顔。くちびる。吐息、
「こわくないからな……」
「まあ、怖い目に遭うのはおまえなわけだが」
「え?」
きょとんと目を丸くするセタンタ。その背後に音もなく立った兄は正しい位置(両こめかみ)に拳骨をセット、レディゴー。
ぐりっ。
「―――――ッ!」
怖い目と言うよりは痛い目、ではなかろうか。
呆然とずれた眼鏡もそのままに悲鳴を上げる弟と、笑顔を浮かべながら目は笑わずに折檻を続ける兄を見守っていたエミヤだったが、
「ラ……ランサー!」
さすがにその責め苦が一分と半を越えた頃になるとまずいと気づき、慌てて声を張り上げた。
原始人の火起こしでもあるまいし、人体から煙が出ているというのは明らかにまずい。


「……で」
正座をし涙目でぶすくれる弟、セタンタ。
その横であぐらに頬杖の兄、ランサー。
「反省したか、このエロガキ」
「エロじゃねえ! エロは兄貴だし、オレは心の底から真面目にエミヤを好きで!」
色合いと姿格好はそのままに、サイズだけを変えたようなそっくり兄弟はいつものように喧嘩を始めた。エミヤも慣れているのでもう、口を出さなかったというか今回はわずかに不覚を取ってしまったというか。
完全にセタンタに対して後手に回ってしまったし、ランサーの気配にも気づけなかったわけだし。
(不覚……)
外した眼鏡がまだあるような錯覚。
眉間に皺を寄せ、軽くそこを揉んでいると涙目のセタンタが身を乗りだしてくる。
「エミヤ!」
「っ」
雨に濡れた子犬。
そんな―――――保護欲をかき立てずにいられないようなものが目に飛びこんできて、エミヤはたじろいでしまう。うるうる涙を湛えた、真っ赤な大きな瞳―――――。
「エミヤはオレのこと好きだよな!」
「っ、え?」
「好きだよな!?」
「好き、だが」
「ならキスしようぜ!」
「ええ!?」
「まだ懲りねえのかこのガキ」
すぱん、と。
キレのいい音をセタンタの後頭部で鳴らしたランサーは、大きくつんのめったセタンタが眉を吊り上げて振り向く前に、振るった平手を戻してそっぽを向いている。エミヤはといえば飛びこんでくるかと思ったセタンタを受け止め損ねてどうしていいのかといった顔をするしかなかった。
「この暴力兄貴ッ!」
「うるせえエロガキ怒鳴んじゃねえピンク脳ウイルスがオレの方にまで飛ぶじゃねえか。大体がな、イベント事に乗り遅れてる時点でな、その脳恐竜並みなんだよ。遅せえんだ。乗り遅れてんだよ。残念でしたまた来世、ってな」
「いってることのはんぶんいじょうもききとれなかったけどめちゃくちゃむかつく……!」
最速の冬木の猛犬は舌戦でもその力をフルに発揮するようだ。いかに小さくてはしっこくても、セタンタはまだまだ子犬。
猛犬には敵わぬということで…………いいのだろうか…………?
悔しさと理解不能さと怒りとで思考回路はショート寸前、またも頭から煙を出しそうになっているセタンタは今にも、目の前の兄に飛びかかりそうだ。
「まず前提条件からして間違ってんだよ」
はらはらと仲裁するべきか膝を浮かしかけているエミヤの耳に、面倒そうに言うランサーの声が届く。
「“キスの日”だからキスする? は、冗談言ってんじゃねえよ」
「―――――ッなら、兄貴はしたくねえのか!」
「ああ?」
大変に柄悪く、当主様は次期当主様をねめつけた。
そうして。
「んなもんしてえに決まってんだろ。だがわざわざ日付がどうの、記念日がどうこうだのと理由つけてかこつけて襲いかかったりしねえってんだよ」
そこまでで済めば立派だったのだ、が、
「オレはオレがしたいときにしたいようにする。そういうもんだろうが」
と。
すべてをぶち壊しにする締めくくりをあっさりと述べてくださったのだった。
「…………」
「…………」
ひゅるっ、と一陣の風。
青い疾風の名は伊達ではなかったか、いやこれはそういう、
「ふざけんなへりくつエロ兄貴!」
怒りで耳まで真っ赤にしたセタンタがちゃぶ台を返す。ランサーはそれを軽々受け止め、逆にセタンタへ向かい放り投げた。
当たりはしない。持ち前の俊敏さでセタンタは避ける。けれど守りはがら空きになり―――――
「たとえば、それが今だ」
懐に飛びこまれたエミヤの遠くで、「ああ!」という顔でセタンタが目を見開いていた。その声を聞き、同時にエミヤの表情を見、悪い顔で笑うランサー。
「ランサー……!」
「逃げ場はねえ。覚悟しな、エミヤ」
「…………っ」
傍目から見れば確かにそうだ。
エミヤはやむなく、奥義を発動させた。
「何!?」
「エミ……」
兄弟の驚いた表情が見えなくなる。阻まれる。
エミヤが跳ね上げた畳によって。
「小母様から教わったものだが……」
まさかこんなところで役に立つとはな。
ちゃぶ台返しよりも数段ランク上の、奥義・畳返し。
強く踏みこんだ足をそのままに、間一髪間に合ったことに低く安堵の息をつくエミヤの額を、ついと流れるひとすじの汗。そそり立った畳の向こうから、
「何考えてんだおふくろの奴」
「エミヤすげえ……!」
心底呆れ返るランサーの声と、心底感嘆するセタンタの声が聞こえた。
すっかりあっさり数十分前までの話題など忘れ去られ、庭から偶然部屋の中を覗いた護衛は当主に次期当主、その教育係、そして部屋の中央に無駄に威風堂々とそそり立つ畳一枚を見て一体何事が、とびくりとその肩を揺らしたのだった。
教訓。
いくら無駄に思えることでも、人から教えられたことはとりあえず身につけておくといい。



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