それを聞かされたとき、わあ、すごく嫌だなあ、とセタンタは思った。そして聞かなかったことにしたいと思った。
そして続く言葉を聞いたときには。
―――――ビンゴ。
よくわからないけど、そんな単語を脳裏に思い浮かべていた。


「ただい……」
からからと戸を開ける。するとちょうど廊下をやってきた頭のほとんどを占める人物とかち合ってしまって、語尾がしょんぼりと消えていく。
ただいうぁー。
斬新な挨拶を生みだしてしまった。
「人の顔見るなりなんだその面。お帰りなさいお兄様とまで言えとは言わねえが、ちょっとは礼儀正しくしてみたらどうだ、ガキ」
「…………」
「……ガキのくせに無視か、てめえ」
剣呑な雰囲気を察したのかぱたぱたと居間の方から足音。エミヤだ。
地獄に仏、だけど仏の前には悪魔がいる。悪魔をどかさないと仏に飛びつけない。邪魔。悪魔、邪魔すぎる。まるで、壁のようにそそり立っている。邪魔すぎる。どかしたい。すごくどかしたい。だけどどかせない。なんていうか近寄りたくない。
「セタンタ」
しっぽを逆立てて兄から距離を取るセタンタに、エミヤの方から近づいてきてくれた。つっかけを履いて下りてきてくれて、セタンタの頭を撫でてくれる。
「どうした? 学校で何かあったか?」
心配そうな顔。セタンタの顔がとろける。
「あ、うん、なんでも―――――」
なくなかった。
火のついていない煙草をくわえて半眼でセタンタを見下ろすランサー。その姿を見たとたんセタンタのテンションは一気に急降下。しゅおん、とかそんな感じで。
「大体帰ってきたのはオレで兄貴じゃねえし……」
そういえば、と思いだしてつぶやくとハァ?とわざとらしく上向きの問いかけが返ってきた。
「兄貴におかえりとか言われてもキモいだけだけど……」
「よし、喧嘩売ってんだなこのガキ。買ってやらあ。表出な。ふっかけてきたのはそっちだ、何があっても泣きごと言うなよ。あとな、壊れたもんは全部おまえが責任持て。それから」
「どんだけ大人げねえんだよ!?」
そこまで言われてしゅんとおとなしくしているほどセタンタとて弱気ではなかった。やるか!と飛び上がってランドセルを脱ぎ捨てようとしたところで、


「君たち」
渋い顔のエミヤに、動きを止められた。
「まずは落ち着いて……」


「あー! 兄貴、ずるっ、それオレのっ、」
「名前も書いてねえのをてめえのだとか主張されてもな。悔しかったらてめえの持ち物全部に名前書いときな」
「〜ッ、大人げねえ、ちょう大人げねえ! 兄貴逆サバよんでる! 絶対、エミヤと同い年なんかじゃねえ!」
「生憎と事実だ。オレとエミヤは同い年でな、修学旅行にも一緒に行った仲だ。布団はもちろん隣同士で」
「そんなのうそだ! うそだうそだうそだ! 口ではどうだって言えるんだから! なっエミヤ!?」
「あ、ん? うん、あ……ええと、だな」
間違いなく同い年です。申し訳ありません。
けれど言ってしまえばセタンタは暴れるか泣くかするだろうと困り顔でその頭を撫でるエミヤ。セタンタはぷうっと頬をふくらませた。
「兄貴はずるい!」
「あ?」
「うん?」
薔薇色のすべらかな頬を丸くふくらませて不満を述べるセタンタに、ランサーは意味不明といった顔をし、エミヤは首をかしげる。
何がずるいのか。エミヤ手製のクッキーをセタンタの分まで取っていったことか。いまさらだ。それともエミヤと同い年だということか。そんなのはどうしようもない。
やさしく、決してランサーがセタンタをからかうときのようにではなく(あれはひどい。いじめだ。摩擦で煙が立つほどのスキンシップなどエミヤは聞いたことがない)、労わるようにエミヤはセタンタの小さな頭を撫でる。そうしてふくれっつらを覗きこんで聞いてみた。
「ランサーの何がずるいんだ? セタンタ」
「……一日に。二個も記念日で。ずるい」
「?」
部屋の隅に置かれたランドセルをずるずるひっぱってきて、セタンタは一冊の本を取りだす。例の“今日は何の日?”というあれだ。
慣れた手つきでセタンタはページをめくり、ある一点で手を止めてふたりの前へと本を差しだした。
「ほら!」
丸い指先が示すのは、
【兄の日】
次いで、
【恐怖の日】


「兄貴ばっかりずるい! ずるっ……て、い、痛っ、あたまっ、いてえっ!」
「兄の日はまだわかるが恐怖の日たあなんだこのガキ。ふざけてんのかふざけてんだな? よしわかったかかってこい。兄の日サービスだ、倍増しで相手になってやらあ。どこから行く?」
「ランサー! 目が、目が血走っているぞ君!」
「んー、エミヤ」
ランサーはセタンタの足を掴んで宙吊りにしたまま、笑顔でエミヤの方へと振り返り、言った。
「大丈夫だ、オレの目は元々赤い」
「そういう問題ではない!」
あと全然大丈夫じゃない。弟虐待ダメ、ゼッタイ。
まるで金色夜叉のようにランサーの腰にすがりついて暴虐を止めたエミヤは、ライフポイント残りわずかといった様子でぐったりとしているセタンタへ近寄り脈を取る。
「……今回のことは、君も少し悪いぞ、セタンタ……」
「……認めたくないものだな。自分自身の、若さ故の過ちと言うものを」
「…………」
どこでそんな台詞を。
荒く息を吐いているセタンタの頭を膝の上に乗せ、エミヤはそっぽを向いているランサーに向かって怒声を上げた。
「ランサー! 君もだな、ちょっとここに座りたまえ!」
「オレは立っていたい。死ぬときも前のめりに……ああ、無様に背を向けて倒れたりなんてしねえさ」
「意味のわからないことを言うな! 流行っているのか!? いいから座るんだ!」
久しぶりに本気で怒られたランサーは少し拗ねたような顔をして、エミヤの前に座る。あぐらをかきかけて、「正座!」と鋭い声を飛ばされて姿勢を正した。
エミヤは、今日の日付で広げられたままになっている本のページを指先で叩く。
「今日はセタンタが言ったような記念日でもあるが! こういった側面も持つのだ! ……何故君たちはそこに目が行かない!」
苛立ったように、焦れたようにエミヤがたん、と指先で叩いたのは。


【ほんわかの日、家族だんらんの日】


「私たちは家族ではないのか。私は……君たちとは直接血のつながりはない。それでも家族であると思っているよ。ここに住まう者は、皆家族だ。…………そうでは、ないのか?」
言って、下を向いたエミヤの表情を間近に見てしまったセタンタは息を呑む。ランサーもまた、沈黙した。
しんと辺りは静まり返る。
きゅう、と噛みしめられたエミヤの唇。
セタンタは体勢を反転させ、それからよじのぼるようにエミヤの腕にすがった。名前を呼ぶ。
「エミヤ」
ごめん、ごめんな、と繰り返す。立ち上がったランサーはうつむいた白い頭を腕で抱えこんでいた。
「ごめん、オレたちが悪かった、ごめんな、エミヤ」
「ガキと同じ意見を口にするのは何だが……悪かった。だからよ、そんな顔すんな」
「……私に謝ってほしいのではない。君たちが、仲良く、しなければ何の意味も」
「する! ……できる、かぎり」
「善処はする」
「…………」
エミヤはさらに下を向いた。
震える肩にエミヤ、と兄弟の声がそろう。
「君、たちは……」
漏れだした声に赤い瞳がタイミングもまったく一緒に、ぱちくりとまばたきをした。
エミヤはいつのまにか解けていた腕の拘束を横にやり、顔を上げて笑う。
「そうやって、どこまでもそっくりで。仲が良いのか悪いのかわからんよ」
言ってくすくすと笑いだしたのに、兄弟はきょとんとするしか出来ない。しばらく笑うエミヤを見て、えい、と。
そろって、前と後ろからその体を抱きしめた。



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