「ただいまー」
がさがさと玄関口で音がする。またか、とエミヤは思った。隣のこねこさんはその音に敏感に反応している。短いしっぽを立て、うずうず、うずうず。どたばたと足音がして、襖が勢いよく開いた。と、こねこさんは一気にそちらへ向かって走りだしていく。
「ただいまエミッ……お。なんだよー。そっか、これがほしんだろ。これがほしんだなー?」
うりうりうり。セタンタはスーパーのビニール袋の中からなにかを取りだすと、もう役目は終わりだとばかりに袋を廊下へ投げ捨てた。みゃう!走っていくこねこさん。
セタンタはおー、などと言いながらその後ろ姿を見守っていた。
「あらためてエミヤ、ただいま!」
「……おかえり、セタンタ」
エミヤがいささかしんなりとしているのは、セタンタが手にした某メーカーのキャンディの袋のせいだ。小遣いの中でやりくりせずとも済むように、三時のおやつはエミヤが手ずから用意している。セタンタもずっとそれで満足してきたはずだ。
しかし、最近セタンタは一週間に二度、スーパーに寄ってから帰るようになっていた。それも必ず、同じものを買って。
「前の、なくなりかけてたよな。ほら、エミヤ。あーん」
「……あーん……」
口を開けるエミヤ。
セタンタにそう言われ逆らえるだろうか。エミヤが。
そうして開いた口の中には、ふわりと甘酸っぱいレモンのフレーバーのキャンディが放りこまれた。
エミヤは渋い顔をして、からころ、とキャンディを口の中で転がす。複雑な思いだった。
たとえば、よっぽどセタンタはこのキャンディが好きだったのだろうか、とか。たとえば、セタンタはエミヤの作るおやつに実はもう、飽き飽きしていたとか。だとか、だとか、悪いことばかりが頭の中を駆け巡る。
エミヤは、心配性でもあった。鈍感天然冷静沈着心配性。それは、ただの人だろうか?多重人格者?
そんなものじゃない。エミヤは、エミヤだ。“エミヤ”でしかない。
そんなエミヤは、自らの口の中にもキャンディを放りこんでからころとやっているセタンタにたずねた。
「……不満があるなら、言ってみるといい。聞けることならなんでも聞こう」
「ふあん?」
「いや、不安ではなくて、不満……」
言いかけて、エミヤは気がついた。まんまるく膨れたセタンタの頬。キャンディを大量に口に入れているので発音が不明瞭なのだろう。仕方ない、消化するまで待つことにした。時計の針の音。膝を立てて座ると、セタンタも同じようにして背中合わせでくっついてきた。こねこさんが廊下でビニール袋と格闘している音がする。
ふうわりと漂うレモンの香り。エミヤは、ふと気づいた。
「セタンタ……」
「んん?」
上半身だけを捻ってたずねる。ずるり、とセタンタが滑ったが、持ち前の運動神経ですぐ体勢を立て直していた。口の中のキャンディは見るところ半分程度。
「君は、イチゴ味の方が好きではなかったかね?」
記憶を探ってたずねる。確か、兄と同じでセタンタもイチゴ味のジェラートが好物だったはずだ。甘い甘い甘いものが好きで、好きで。
だからレモン味よりもイチゴやミルクの方が―――――。
「ん。イチゴ味、のが好きだぜ」
「それではどうして……」
無駄なことではないか。せっかくの小遣いを好きではないものに使うだなんて。
「なにか理由があるのか? セタンタ」
理由がなければ許さんぞ、と詰め寄られたセタンタは、んー、と少し頬を赤くするとぽりぽり、と指先で掻いた。
「ファーストキスって、なんの味するか知ってるか?」
「え」
「レモンの味がするんだって」
こしょこしょこしょ、と耳元でささやかれて、かあ、とエミヤは顔を赤くした。なんて。……なんて、懐かしく。それでいて恥ずかしい。
「でも、このまえのキスが何味だったかオレ、覚えてないんだ。だから、充分にレモンの味になったら、オレから……な?」
ぎゅっと服の袖を掴まれて、エミヤはとまどう。あ、う、と出てこない言葉。
「な? エミヤ」
「セ、セタンタ」
「ん?」
「その…………」
「なにやってんだクソガキ」
危ない、と言おうとした言葉はかかと落としの一撃にむなしく消え去った。


「かかとはないのではないかね、かかとは」
「いいんだよ。いやらしいこと考えてるガキには天誅が必要だ」
「だからと言って……」
「おい。目」
覚めてるぞ、と言われてセタンタはぱちぱちとまばたきをした。と、脳天に激痛が走って思わず涙目になった。そんな彼になーん……とこねこさんが寄ってきて、ぺろぺろと目元を忙しく舐める。
「……こねこさんの方が兄貴よりよっぽど優しいぞ」
「そうかそうか」
「聞いてんのか、人の話」
「色ガキの話は聞いてねえ」
「……いろがき?」
「おまえみてえなガキのことだ」
いまいち納得の行ってなさそうなセタンタに背を向けランサーはキャンディをひとつ口に放りこんだ。そしてがりがりと噛み砕きながらセタンタを膝枕するエミヤの方へと唇を寄せる。
「あ!」
「こんなんでファーストキスがどうのこうのっていうんならよ、オレだって今からするのがエミヤとのファーストキスだ」
顎をとらえて。
「兄貴!」
「セタンタ!」
頭を打っているのだぞ!とエミヤに抱きしめられて、セタンタはもがいた。手も足も自由にならないとすれば……あとは!
ごわん。
「―――――ッ」
「―――――!」
よりにもよってかかと落としをくらった頭で兄の顎に頭突きを食らわせたセタンタは、がんがんと割れそうな頭を必死に押さえた。涙が滲んでくる。血が滲んでないだけ、ましか?
「……ってえな。なに考えてんだ、クソガキ」
「バカ兄貴がエミヤに手だししようとするからだ」
ぐるる、がお、と睨みあう兄弟。いつもなら喧嘩両成敗で鉄拳制裁をするところだがセタンタは頭に怪我を負っている、さてどうするかとエミヤが悩んでいると。
みゃう。
「あ」
こねこさんが、ふわりとエミヤの膝の上に乗った。そして、うーんと背伸びをすると、その唇にくちづける。
「あ」
「あ」
そして、しゃりしゃりしゃりと独特の感触の舌でそこを舐めだす。猛犬と子犬は唖然として子猫の行動を眺めた。しゃりしゃりしゃり。


結論。
勝負はほとんど、無欲なものが勝つという。



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