小さなくしゃみ。
エミヤはそれを耳ざとく聞きとがめると、やばいという顔をしているセタンタの額にこつんと額を当てた。軽く目を見開く。寝転がって釣り新聞を読んでいたランサーはそれを見てわずかに口元を吊り上げる。
いまだに使いこなされている年季の入った黒電話の受話器を取るエミヤに、セタンタがまとわりつきなあなあ、とたずねた。短いしっぽはしょもりと垂れ下がりながらも左右に忙しい。必死だ。
「どこに、電話、すんの……?」
「柳桐寺だが」
「やだああああ!」
その絶叫にうたたねしかけていたこねこさんがびくり、と覚醒した。
「やだやだやだやだあそこだけはやめてくれよエミヤ! 魔女やだ! 魔女こわい! つか魔女の苦い黒い薬こわい!」
「と、言ってもだなセタンタ。我慢しないか? キャスターの薬はよく効く。確かに少々個性的ではあるが……」
「少々とかいうレベルじゃねえよ! あれ毒だろ! 絶対毒だ!」
日頃はなにごともこわくねえ!と胸と意地を張るセタンタだったが、エミヤの涙とキャスターの薬だけは絶対的に苦手だった。エミヤが泣きながらこれを飲んでくれとキャスターの薬を出してきたらどうしよう?夏にクラスメイトたちと開いた百物語大会で平然とした顔をしていたセタンタだったが、ふとそんなことを思いついてぞっとした。
それで、セタンタにも怖いものがあるのかと皆に誤解されたわけだが。
本当にそんなことになったらどうしよう。
「病院。な、病院、行くから。連れてってくれよエミヤー。キャスターの薬確かによく効くけどさー。オレやだよー。怖いよー」
「バカ兄貴! それ誰の真似だよ!」
「おまえ」
「真顔でいうな!」
あんまり嫌がるのでとりあえずと額に冷えぴたを貼ってもらったセタンタはがお、と吠える。と、こんこん咳きこんで、慌てたエミヤにその背中をさすられた。
「今年の風邪は治りにくいというからな。キャスターの薬で早めに……」
「だからやだって言ってんだろ! なんでエミヤそんなにあの魔女に肩入れすんだよ!」
懸命にいま目の前にある危機から逃れようとするセタンタ。肩入れなどという言葉はもちろんエミヤから覚えた。
「それに今年の風邪が治りにくいだなんての、毎年聞くだろ!?」
「あー。そいや、聞くよな」
「だろ!?」
兄の意見にも即反応するところを見ると、よっぽど嫌なようだ。おそるべしキャスター、おそるべし柳桐寺の魔女。冬木の子犬じゃかなわねえ。弟に有効な意見を言ったかと思った兄は打って変わってにやりと笑んだ。
「だけど、正論だろ」
「誰の味方だよ!?」
「少なくともおまえのじゃねえな」
「…………ッ」
手をひらひら振って言ってのけた兄を睨みつけようとしたセタンタは、そのあいだにエミヤが入ってきたことによって思わずたじろぐ。真剣な視線にとまどいを隠せない。
「セタンタ」
「……う」
「私は、君の体が心配だ」
「……うう」
「無理強いをするのはよくないことだとわかっている。だがしかし……君が辛い思いをするのは……耐えられない……」
まるで自分が苦しいかのように胸に手を当てて眉を寄せるエミヤ。セタンタはううう、と後ずさる。
後ずさり、後ずさって、足がどん、となにかにぶつかった。
見下ろす。
兄だった。
「よお、参考までに言っとくが」
「……なんだよ」
「男として、好きな相手を苦しませるのはどうだろうな?」
「うううう」
セタンタはうめいた。にやにやと見上げてくる兄を見て、エミヤを見て、兄を見て、エミヤを見て。
「……セタンタ」
その湿り気をおびた声に、陥落した。
とことこと黒電話のところまで歩いていくと、セタンタはじこじことダイヤルを回しだす。セタンタ?と不思議そうなエミヤに、柳桐寺。電話。とだけ短くセタンタは答えた。
「……セタンタ!」
「自分で、する。今度から、そうするから」
「……セタンタ?」
「だから、エミヤに、心配、かけないから」
受話器を放りだして、セタンタはエミヤにしがみついた。腰の辺りにしがみついて懸命に大きな声で言い募る。ときおりこんこんと咳きこみながら。オレ、頑張るからっ、魔女の苦くて黒い薬にも負けない!エミヤが笑ってくれるなら、エミヤ、エミヤ、エミヤ!
『……もしもし? もしもし?』
放りだされた受話器から困惑した声が漏れている。ランサーは怠惰に寝転がったままそれを掴むとアロー?と甲高く一声告げた。
『あ……その声はもしかして、当主様でいらっしゃるので!?』
「オレはそんなもんじゃねえ。ただの冬木の猛犬さ。―――――でな? オレの大事な弟分が風邪を引いて、ぜひそちらの若奥様の作られる風邪薬を所望するときている。……届けてくれるだろう?」
『は、それは、是非!』
「ああ、頼むわ。そんじゃ、明日までには」
言い捨て、がちゃんと受話器を置くランサー。ゆらと視線をめぐらせる、とそこにはセタンタにしがみつかれたままのエミヤ、エミヤにしがみついたままのセタンタ。
「これで、」
いやな予感がしたのだ。
「貸し、ひとつ、な?」
非常におかしそうに声を上げてランサーは笑うと、足をばたばたさせて子供のように大はしゃぎしだした。腹を抱えて大爆笑、だんだんと打ちつけられるかかとは畳を抉りそうだ。
いつか、いつかなってやる。この兄のように文句のつけようのない健康体になって、エミヤを完璧に守れるように、きっと―――――!
「それではセタンタ、本格的な薬が届く前にこれを飲んでおこう」
「え」
それは、黒い球。独特のハーブやらなんやらの匂いがするそれを笑顔ですすめてくるエミヤに、セタンタが逆らえただろうか?
「……ううううう」
涙目になりつつもその小さな黒い球を飲み下したセタンタに、エミヤは涼しく笑って甘いチョコを与えた。
みなさん風邪には気をつけましょう。



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