ランサーがある日、林檎をたくさん―――――具体的には箱で―――――持ちこんできた。彼が土産を持ってくるというのはめずらしく、次期当主と教育係は目を丸くしてどかん、と畳の上に置かれたダンボール箱を見守った。
なにこれなにこれ。
いいの?
触っても、いいの?
こねこさんとともにそんな雰囲気を全身から醸しだすセタンタは、先程から箱をじっと見つめてうずうずしっぱなしだ。
「どうしたんだ、ランサー? またバイト先で給料代わりにもらってきたのか?」
「ちげえよ。知り合いの姉ちゃんからおすそ分けにってな。ま、あれだ。いつもの虎の姉ちゃんだ」
「タイガー?」
その一瞬、箱から視線を外してきょとんと上目遣いで言うセタンタに、エミヤとランサーの表情が変わる。見事に。エミヤは目を丸く見開いて、ランサーはにやりと笑って。
「そうそう、タイガーの姉ちゃんだ」
「違う! 違うぞセタンタ、彼女は大河だ! 決してタイガー、ではない!」
「大河……タイ……ガ……タイガー?」
「そうそう、覚えが早ええな」
「だから違うと言っているだろうセタンタ!」
その声はいっそ悲痛で、肩に食いこんだ指が少し痛かったがセタンタは耐えた。エミヤがこんなにも言うのならばそれは大切なことなのだろうし、それなら自分はそれを守らないと。
「大河。タイガ?」
「そうだ。それでいい」
ほっとしたようにエミヤは微笑むと、心底ほっとしたように微笑むとしゃがみこんでセタンタを抱きしめた。そしてその小さな頭をやさしく撫でる。同時に背中をぽんぽんと叩かれて、正直子供扱いか……と不満もあったが、エミヤの体温が心地良いのでそれに甘んじてしまった。
さて、セイバーの住まう道場にフジムラタイガなる女性がいるのはセタンタも知っている。快活な女性で、エミヤに連れられセイバーや士郎に会いに行くときに一度や二度顔を合わせたこともある。そのときはほとんどエミヤが話していたので、セタンタは挨拶だけをして、「おおー、元気な男の子ねー」などと満面の笑みとともに頭をいささか乱暴にぐりぐりと撫でられて驚いたけれど。
嫌ではなかった、思い出がある。
ちなみに“士郎”はエミヤの遠い遠い親戚だ。名を、衛宮士郎という。めずらしいことに、あまりエミヤは士郎を好いていないようだが、親戚の血のせいか。ふたりは、年も離れているというのにとてもよく顔が似ていた。
さて、昔話はここまでにしよう。ランサーは藤村大河と仲がいいようで、季節になるとなにかとおすそ分けをもらってきていた。
春は苺、夏は西瓜、そして秋は―――――
「わあ……」
真っ赤に熟れた林檎に、歓声を上げるセタンタ。箱一杯に詰まったそれは艶々として紅く、身が締まっていていかにも美味しそうだった。エミヤも箱を覗きこみ、目を丸くして口元に手を当てている。感心したときのエミヤの癖だ。
「これはまた、立派な……」
「な、な、な、エミヤ! オレ、アップルパイが食べたい! バニラアイスのかかったの!」
生地がサクサクで、林檎が甘くて、カスタードクリームがとろりとしていて、溶けかかったバニラアイスの熱さと冷たさのハーモニー。
陶然としてセタンタがエミヤの服の袖を掴んでいると、エミヤもふむ、と言って笑う。
「確かに、これだけ大量の林檎をすべてそのまま食べる……というのはつらいものがあるな」
林檎ジャム、ジュース、林檎とさつまいものケーキ、アップルシナモンケーキ、砂糖と赤ワインで甘く煮たコンポート…………。
「甘いものばかりになってしまうがな、ケーキなどは洋酒をきかせればそれなりに大人でもいける口になる」
それならば護衛たちの口にも合う、とエミヤは笑って箱を抱え上げようとした。まずはさっそくセタンタの希望のアップルパイを作る気なのだろう。
と、そのスラックスの裾を握る手があった。
「ちょっと待てよ、エミヤ」
「ランサー……?」
にやりと笑み上げる顔。怪訝そうなエミヤの腕を握って箱を畳に下ろさせ、ランサーはポケットを探る。
「確かにこれだけの量だ。加工して一気に食っちまうのもいいが、まあ、まず素材の味を堪能してからにしようぜ」
そう言ってランサーが取りだしたのは、小さな折りたたみ式のナイフだった。
セタンタは目を丸くする。エミヤも同じくそうしかけたが、慣れているのか。すぐさま平静な様子に戻りやれやれ、といった顔で、ランサーが箱の中から林檎のひとつを選びだすのを眺めている。
「エミヤ、ナイフ! ナイフ!」
「ランサーはサバイバルが好きだからな。ああいったものはいつでも持ち歩いているんだ」
それっていいのか……と思わないでもないセタンタだったが、エミヤが口出ししなかったのでいいことなのだろうと結論づけた。
こうやって、セタンタの常識は作られていくのである。
ほどなくランサーは箱の中から大きな、真っ赤に熟れた林檎をひとつ取りだすとそれに決めたようだった。
「エミヤ、皿」
「ああ」
「あと、新聞紙な」
「わかった」
すぐ隣の台所へと命じられるままに皿を取りにいくエミヤ。そのあいだランサーは服の生地で林檎のひとつを磨いている。息を吹きかけつつ、丁寧に。
その真剣な様子が見慣れなくて、セタンタがまだ目を丸くしていると、すぐにエミヤが白い皿と新聞紙を持って戻ってきた。
「ご苦労さん」
「これくらい、なんでもないさ」
目を閉じて言うと、新聞紙をばさりと広げるエミヤ。その上にランサーがあぐらをかいて座り、近くのちゃぶ台の上に皿を置いた。
「さて―――――……っと」
「な、だいじょぶなのか? 兄貴」
言葉がやわらかいのは当の本人にではなく、エミヤに向けたものだから。問われたエミヤはセタンタのほうを向いて、何度かまばたきをすると、
「おとなしく見ているといい。驚くぞ」
初めて見たときの私のようにな。
と、いたずらっこのような口調で人差し指を口元に当てて笑った。
エミヤにそう言われてしまってはセタンタもなにも言うことが出来ず、おとなしく見ているほかにない。
ランサーが林檎を手に、もう片方の手にナイフを握るのを、ふたりは黙って見ていた。
銀色の切っ先が赤に食いこむ。
「……わ……!」
食いこむが早いか、するすると卓越した素早さで林檎の皮を剥いていくナイフ。細い皮は一度も途切れずに渦かばねのようになって新聞紙の上へと落ちていく。するするくるくる。
あっというまに皮を剥き終えて真っ赤だった林檎を真っ白にしてしまうと、ランサーは満足そうに笑んだ。大ざっぱに新聞紙でナイフについた果汁を拭い、ぱちんと閉じてふたたびポケットへと戻した。
ぱちぱちぱちぱちぱち。
幼いセタンタからの懸命な拍手が部屋に響き渡る。ランサーはそれを見て不適に笑むと、エミヤに向かって丸のままの林檎を差しだした。
「ほら。食えよ」
「え?」
「ついこないだまで風邪ひいてたっていうじゃねえか。林檎は風邪にいいんだよ。食っとけ」
ん、と差しだされる林檎と、飄々としたランサーの顔を交互に見て、エミヤは困ったような笑いを浮かべる。
「ランサー?」
「なんだ」
「うれしいがな。その、丸のまま、というのは……」
「あ? ……ああ……そうか、そうだったな」
ったくめんどくせえ、と大して機嫌も悪くなさそうに言いながら、ランサーは丸のままの林檎をひとくちそのまま齧る。
そして、皿の上に置くとまたもやポケットからナイフを取りだしてきれいに等分してみせた。芯も種も、きちんと取り除いて。
「ほら」
差しだされたランサーの手からぽたりと果汁が落ちる。エミヤはなにか物言いたげにランサーの顔を見たが、彼がなにも反応しないのを見るとそのままランサーの持つ林檎に齧りついた。しゃくしゃくと咀嚼しつつ、ぽたり、ぽたりと落ちる果汁は舌で舐めとってしまう。
「エミヤ? オレの腕にもついてるんだが」
「そこまでは面倒見きれんよ、ランサー」
「はっ」
違いねえ、と肩をそびやかして、ランサーは手首から肘まで伝った果汁を己の舌でべろりと舐めとった。
それらがごく自然な態度だったため、セタンタは騒がず焦らずその光景を見ていた。ただ目を輝かせ、白い果実をじっと見ている。
青く短いしっぽはぱたぱたと左右に振られていた。
「な、兄貴、オレにも」
「あ? んじゃ、これでも食っとけ」
「……って! これ、兄貴の食いかけじゃねえかよ!」
歯形のついた林檎を手渡され、セタンタはしっぽをまっすぐに振り上げて叫んだ。


「ランサーはな、実は器用なんだ。ただ面倒くさがりというか……大ざっぱというか。大体こうであればいい、というラインまで達していればそれ以上のことはしない」
「出来るのにしないのか?」
「そうだ」
「へんなの」
そうだな、と言いくすくすと笑うエミヤ。そのエプロンの紐をいじくりながら、セタンタはオーブンで焼かれているアップルパイの甘い匂いに思いを馳せていた。



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