「ただいま!」
学校から帰ってきて元気よく玄関を開け放つと、おかえりなさい坊ちゃんと護衛たちの声。それを右から左へ受け流してセタンタは彼の元へと向かう。そう、エミヤだ。
一にエミヤ、二にエミヤ、三四がなくてというけれどエミヤで、五ももちろんエミヤだ。当然!と鼻を擦って浮き足立って廊下を走る。このままならわたし空も飛べそうよ!―――――いけない、ちょっと変なテンションになった。
だけれど本当に空も飛べそうだ。だって、エミヤが好きで仕方ないのだから。
「エミヤ!」
桃色の気分のままセタンタはエミヤの部屋の襖を開け放つと、おかえりというやさしい声を聞いて幸せのまっただなかの中その胸の内に飛びこんだ。邪魔なランドセルをもぞもぞと下ろしながら笑って頭をこすりつけ、そして胴体に腕を回す。
エミヤは大きくてまだ小さなセタンタでは腕が回りきらないけど、それでも出来るだけくっついていたいから。
ぎゅうぎゅうと抱擁。
「今日も楽しかったか?」
「うん!」
「大事はなかったか?」
「うん!」
「それはよかった」
微笑む気配。エミヤの笑顔は数多いセタンタが大好きなもののひとつなので、セタンタは急いで顔を上げる。
と、そこには眼鏡をかけてやさしく微笑むエミヤがいた。
へへ、と思わずとろけるセタンタ。それを見てエミヤもさらに笑みを深める。私は君の笑顔が好きだよ、とエミヤが言ってくれるので、セタンタはなるべく笑うようにしている。無理はしない。エミヤが悲しそうな顔をするから。それでも毎日は楽しくて騒がしくてまるでびっくり箱のようなのでセタンタは笑ってばかりだ。
……兄のように意地悪な人種もいるけど、いや、基本的にセタンタは兄が嫌いなわけではない。ただエミヤにちょっかいを出したりセタンタを子供扱いしてからかったりするときの兄が好きではないだけで。
正しく子供扱いされるのはいいけれど、間違って子供扱いされるのはいやだ。
「エミヤ、仕事中だったのか?」
ちゃぶ台の上に書類が乗っているのでたずねると、ああと言ってエミヤは首をかしげた。
素早くセタンタを抱く腕を片手にして逆の手でとんとんと書類をまとめてしまい、涼やかに言う。
「つい先程までな。だが、もう一段落ついた。だから大丈夫だ」
「そっか」
それはよかった。
エミヤがよく誉めてくれる“太陽のような笑顔”で笑うと、セタンタはエミヤの顔をあらためてじっと見た。うん?と不思議そうに言い、エミヤは逆方向にことんと首をかしげた。
「眼鏡」
「ああ」
言われて気づいたというようにエミヤは右手でそれに触れる。余計な装飾のないすっきりしたデザインのそれが、エミヤにはとてもよく似合っているとセタンタは思う。
普段でもエミヤは知的だけど、眼鏡をかけているともっと知的に見える。
「オレ、エミヤの眼鏡かけてるとこ、好きだな」
「そうなのか」
「うん、大好きだ!」
「変わった趣味だな」
そんなことを言いながらうれしそうにセタンタの頭を撫でるエミヤ。幸福感でいっぱいに満たされてされるがままになりつつ、なあなあとセタンタはその黒い袖を引いた。
「オレもそれかけてみたい」
「……?」
「だめ?」
上目遣い。
それにエミヤが弱いのを知っていて、セタンタは必殺との勢いで繰りだす。するとエミヤは困ったような顔をしたが、本当に困っているわけではないのをセタンタは知っていた。だから、やめなかった。
「なあなあエミヤ、一回だけ! 一回だけでいいから!」
袖を伸びるほど引いてねだれば、エミヤはますます眉を寄せた。それでも口元には笑み。ここぞとばかりにセタンタは猛攻をつづけた。
「やれやれ……」
仕方ないな、と困ったように笑ってエミヤはそう告げた。とうとう折れた。そう言ってくれるのがあらかじめわかっていても、うれしいものだ。
目を閉じるとすい、とエミヤは腕を引く。邪魔にならないようにその寸前セタンタは手を離していた。こういうものを阿吽の呼吸というのだと教えてもらった。
他でもないエミヤに。
鋼色の瞳が薄く開かれ、エミヤは静かに眼鏡を外す。そのしぐさが見惚れるほどきれいだと知っているのは自分だけでいいとセタンタはそのとき思った。
「ほら」
大事に扱うのだぞ、と手渡されてセタンタは明るく顔を輝かせた。うんうんと何度もせわしなくうなずく。
眼鏡。エミヤの眼鏡。エミヤの眼鏡!
高鳴る胸を押さえようともしないでセタンタはおもむろにそれを装着する。
―――――と。
「わあ……!」
世界が、おおげさでなく変わった。
大きな眼鏡は重くて少しどころじゃなくずれたけれど、両手で一生懸命押さえてセタンタはあたりを見回す。正直、驚いた。
薄いレンズ一枚でこんなに世界が違う色に見えるのかと。
立ち上がってぐるん、と一回転。ずれ落ちそうになって慌てて手で押さえて、そのままもう一回転。ぐるん、ぐるん、ぐるん。
「こら、はしゃぎすぎだぞセタンタ」
「だってすげえんだもん!」
しゃぼん玉の中にいるようだ。虹色でぼんやりとして、ちょっとくらくらと、ん?
くらくらと、ぐらぐらと、ぐらんぐらん、と?
「あ―――――れ」
「セタンタ!?」
エミヤの焦った声が聞こえて。
視界が白くなって、気がつくと温かい腕の中にいた。あ、エミヤだ。そう思って体を起こし、にへりと微笑もうとして急激な眩暈に襲われる。
「うわああああ」
きもちわるい、とあおむけになると呆れたような声が頭上から聞こえてきた。
「酔ったんだろう。慣れない眼鏡をかけて回ったりするからだ、まったく……」
「だってうれしかったんだ……」
言う間にもうえ、とこみあげる吐き気。エミヤはため息をついて、おとなしくしていろと言うと額をそっと押さえた。
「うー」
「……? セタンタ?」
「きもちわるいけど……なんかうれしい」
へへ、と青ざめながらも相好を崩したセタンタに、不思議そうにまばたきをするとエミヤは眉間に皺を刻んだ。
ぺちんと叩かれる額。
「あいて」
「反省するんだ」
「はーい」
「はい、だ」
「はい」
「よし」
と、顔を覗きこんでにこりと笑われ、ああやっぱりエミヤの笑顔はきれいだ、とセタンタは思ったとか思ったとか。
思わずにはいられないのである。



back.