「なあ、兄貴」
子犬―――――結局“こいぬさん”という仮の名前がついてしまった―――――を膝の上に抱いてセタンタがつぶやく。
ランサーは煙草をくわえたまま無言でそちらを見た。火は、ついていない。
「こいつがいなくなったら、エミヤ、さびしがるよな」
「だからってここの犬にすることは出来ねえぞ」
「知ってる、けど……」
いつになくセタンタの声は弱々しかった。兄の答えがそう来ることはわかってはいたのだ。セタンタとてわかっていた。だけど、エミヤ。昨夜、トヨエツで買ってきたドッグフードを食べて満腹になり、こねこさんと一緒になって眠っていたこいぬさんを静かに目を細め見ていたエミヤの横顔。それはあまりにも安らかで、幸せそうで。
その幸せがずっとつづけばいいのにと、彼のために思ってしまったのだ。
でも、それでも、こいぬさんはこの家の家族ではない。他に家族がいる。
「エミヤ……泣くかな」
「馬鹿野郎。泣くか」
「泣かないかな」
「泣くかよ」
「そっか」
エミヤは夕飯の買い物に出かけている。それがこいぬさんとの別離の瞬間を迎えないためではないかと、セタンタは勘繰ってしまうのだ。せめて自分がいないところで手を離れてほしいと。思っているのではないかと。
そんなことを考えてしまうとセタンタのほうが悲しくなった。
エミヤにはいつでも笑っていてほしいのに。
「夕方だって言ってたな」
紫煙を吐きだすと、近くにあった灰皿に短くなった吸殻を押しつける。うん、とセタンタはうなずいた。
「……避けてんのかもなあ、あいつ」
セタンタは驚いた。
兄も同じことを考えていたのだろうか。兄貴……そう呼びかけようとして、呼び鈴が鳴ったことでセタンタの動きが止まる。
「来たか」
なんでもないことのようにランサーは言うと、立ち上がる。セタンタは崩した正座姿のまま、その姿を見上げた。赤い瞳と赤い瞳がぶつかる。
「行くぞ」
「……ん」
こいぬさんを抱き上げると、セタンタは立ち上がった。赤い首輪、小さな耳、くるんと丸まったしっぽ。
エミヤ、と小さな声でセタンタはつぶやいた。


本当にありがとうございます、とやってきた飼い主は何度も頭を下げた。ランサーはそれに丁寧に応対している。エミヤのような丁寧さではなかったけれど、それでも誠意を持って。
そのやり取りを聞きながらセタンタはこいぬさんを胸に抱いていた。黙って、じっと。
「それでは―――――」
また一礼をしたあとで、飼い主は手を差しだす。それがこいぬさんを我が手に求めているのだと知って、セタンタは刹那とまどった。
「あ……」
「ありがとうね、坊や。坊やがこの子を見つけてくれたんでしょう?」
やさしそうなロングヘアの女性が微笑む。隣の、夫らしき男性も。セタンタはあ、う、と呻いてから、仕方なく首を縦に振った。
「うん」
「本当にありがとう」
どうしよう。
渡してあげないと。
この人たちの手に、こいぬさんを。だけど。いいのか。エミヤがいないときに。だけどエミヤに別離の瞬間を味あわせたくない。
どうしよう。
女性は不思議そうな顔をした。セタンタは、さらにとまどう。
どうしよう。
そのときだった。
「―――――あ」
玄関に足を踏み入れたのは、ビニール袋を手に持ったエミヤだった。エミヤはいま帰った、と小さな声で言うと、いったんビニール袋を下ろす。そしてセタンタの手からこいぬさんを抱き上げると、女性に向かって差しだした。
「どうぞ」
「あなた……昨日の電話の?」
「はい」
「そうですか。ご丁寧に、ありがとうございました……!」
「いえ、当然のことをしたまでです」
エミヤは微笑むと、こいぬさんの頭を撫でた。きゅうん、とかすかな声。
それに笑みを深めたエミヤはささやくように告げる。
「大事な人の元へ帰れて、よかったな」
呆然としていたセタンタはその言葉にはっと顔を上げた。こいぬさんを抱きしめると何度も礼を言って、飼い主たちは邸宅をあとにした。エミヤはずっと手を振っていた。本当によかった。そう、思っている笑顔で、ずっと。
「……エミヤ」
夕日は温かなオレンジ色。その光に照らされて、エミヤの横顔はどこまでもどこまでも安らかだった。
「さびしく、ないか?」
うつむいたまま服の裾を握って問いかけたセタンタに、エミヤは少し驚いたように視線を落とす。だが、すぐにやわらかく首を振った。
「さびしくなどないよ」
「本当に?」
「ああ。だって、彼は大事な者のいる場所へ無事戻れたのだから」
本当によかった。そう言って、エミヤは笑う。
だけど、だけど、セタンタは無性にせつなくなってむしゃぶりつくようにエミヤに抱きついた。
「セタンタ?」
頭上から声がする。セタンタは黒い衣服に顔を埋めたまま、くぐもった声で告げた。
「エミヤにはオレがいるからな!」
「セタンタ」
「オレがいるから、だから」
だいじょうぶ。
懸命に告げたセタンタに、エミヤは静かに鋼色の瞳をまばたかせる。その肩を横からランサーが抱いた。目を閉じて、ま、と言いながら、口元を上げて笑った。
「ガキと同意見ってのもなんだがな。オレもいる。それだけで充分だと思っとけ」
がっちりと強く上と下から抱擁されて、エミヤは無言でいた。じっと己の靴の先を見つめる。
それから、ふわりと笑った。
「ああ」
みゃあああん!
いつのまにか走りよってきたこねこさんが、自分もいるというように力強く、甲高く鳴いたのを聞いて三人は目を丸くする。
そして一斉に笑い崩れた。



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