えみやー、と呼ぶ声がする。遠くからのセタンタの発音は大抵ひらがな発音に聞こえた。
エミヤは眼鏡を指先でく、と押し上げると書類との格闘を止める。いつもなら廊下から聞こえてくるはずの足音がない。と、いうことは。エミヤは立ち上がると静かに襖を開けた。するとそこには、思ったとおりの姿。
「ただいまっ」
ぱっと明るく笑う。黒いランドセルを背負ったセタンタは、おそらく回りこんで庭から入ってきたのだろう。めずらしいことではない。よくあることでもないが。
「おかえり、セタンタ」
大事はなかったか?といつもの問答を始めようとしたエミヤは、セタンタが手にしたものに気づく。疑問に首をかしげ問いかけるように視線を投げると、セタンタはそれを胸元に掲げてへへへと顔をゆるませた。
「カンタから借りてきた!」
それは。
空色の、フリスビーだった。


セタンタが駆ける。高く舞い上がったフリスビーを軽々ジャンプしてキャッチすると見事な着地を見せた。おみごと十点満点。縁側に置いたランドセルの傍らではこねこさんが眠っている。猫というのはよく眠るものだ。特に子猫ともなれば。
赤いリボンを揺らしてセタンタはフリスビーを手にしたまま駆けてくると、エミヤに手渡し得意げに微笑んだ。
どうだ、とその顔が誇らしげに言っているから、エミヤは頭を撫でてやる。ぐりぐりぐり。
くすぐったそうに目を細めて、セタンタはしっぽをぶんぶんと振った。
“エミヤ、これで一緒に遊ぼうぜ!”
この邸宅の庭は広い。公園にはさすがに劣るけれど、フリスビーで遊ぶくらいは充分に出来た。ちょうど仕事も一段落ついたので、エミヤはその誘いを快諾した。眼鏡を外して庭に下りると、さあ来いとかまえるセタンタを見ながらフリスビーを投げる。
風を切る音がして、空色のフリスビーは空を飛んだ。秋の空に溶けこむようなフリスビー。それをセタンタは追いかけていき、キャッチする。エミヤの狙いは正確で、セタンタの身体能力は優秀だ。卵が先か鶏が先か、わからないけれどふたりの息はぴったり合っていた。
またフリスビーが宙を飛び、セタンタが駆けていってそれをキャッチする。戻ってくる足音と歓声。
それは、陽が暮れるまでつづいた。
「……ああ」
セタンタの頭を撫で終えて、エミヤは気づいたように顔を上げた。もう宵闇が訪れる時で、そろそろ夕飯の支度をしないといけない。
今日はなににしようか、と考えこんだエミヤの膝にどん、とぶつかってくるものがあって、思わずエミヤは下を向く。
セタンタだった。
すまないな、今日はもう終わりだ。そう彼をなだめようとしたエミヤは、その顔に満面の笑みが浮かんでいるのを見て不思議に思う。
いつもいつでも、エミヤと遊んでいるときはもっともっとと終わりを嫌がるセタンタが何故笑っているのか。わからない。
眉を寄せたエミヤに、セタンタは声なく口を開いた。
「?」
大きく開いて、閉じて。その動きにさらに眉を寄せるエミヤに、今度は口に出して、
「わん」
と、セタンタは言った。
「―――――は?」
「わんわん」
しっぽがぶんぶんと振られる。なついてくるセタンタの小さな頭をとりあえず癖で撫でながら、?マークをいっぱいに飛ばすエミヤ。
犬の鳴き真似?一体何故?
静かに混乱の内に沈んでいこうとするエミヤに、わん、ともう一声鳴いてから、セタンタは言った。
「エミヤ、オレのあだ名知ってるか?」
「あだ名?」
そうそうとうなずくセタンタ。それを見て考えるエミヤ。……確か、以前ホットケーキを作っていたときセタンタが駄々をこねたことがあった。そのときセタンタは……。
「“冬木の子犬”?」
わん、とセタンタが吠える。それでぴんと来た。
「セタンタ、君……」
「こいぬさんは家族の元に戻っちゃったけどさ。オレが代わりになる!」
「セ、セタンタ」
がくりと膝を折るエミヤ。肩を震わせるその様を見て、セタンタはとたん心配そうに表情を曇らせた。失敗しただろうかとそんな表情で、エミヤのまわりをくるくると回る。エミヤ?エミヤ?表情と同じく心配そうな声。
「エミヤ」
ここはごめんなさいをするところだろうか。セタンタがそう思ってエミヤの顔を覗きこんだとき。
「……っ、ふふ、君はまったく……」
エミヤは、笑っていた。
肩を震わせていたのは、堪えきれない笑いのせい。それを知ってほっとしたセタンタだったが、すぐにむうっと頬を膨らませて笑うエミヤに突撃していく。
「なんだよ、なんで笑うんだよ、エミヤ! オレ、いっぱい考えて、」
「あ、ああ、すまない、だが、ふ、ふっ」
謝る端から笑いだしてしまうエミヤになんだよとふくれていたセタンタだったが、エミヤがあまりにもおかしそうに笑うので、だんだんと彼の顔も笑み崩れてきてしまった。セタンタの大好きなものそのいち、エミヤの笑顔。
「エミヤ」
抱きついてくるセタンタを抱き返しながら、エミヤはささやく。笑いで滲んだ涙を拭うことなく。
「言っただろう? 私なら、君が……君たちがいるから、大丈夫だと」
だけど、ありがとう。
そっとささやかれた言葉に、セタンタはうなずいて、ぎゅうとエミヤにしがみついた。


その後。
夕食の席でその話を聞いたランサーは、「その年でエミヤの犬発言とは末恐ろしいガキだな」とけろりと言ってのけ、場の雰囲気をだいなしにしたという。



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