教室はざわざわと騒がしい。明らかに普段と違う空気に満ちている。
「じゃあ、この問題……」
「はいはいはいはい!」
がたん、と椅子を蹴倒して立ち上がったのは我らが冬木の子犬、セタンタだ。担任の言葉に真っ先に反応して手を上げて、しっぽをぶんぶんと振っている。せんせ、せんせ、オレ当てて。オレ当てて。と言わんばかりだ。
そんな様子を見せられては担任とて無下には出来ない。苦笑いして、黒板を指していた手をセタンタのほうへと向ける。
「はい、セタンタくん」
セタンタは目を輝かせると力いっぱい答えた。
「わかりません!」
どっと教室内が沸いた。さきほどまでの緊張感は完全にどこかへ行ってしまった。言いきったセタンタのそのあまりの無邪気な様に笑い崩れる保護者たち。クラスメイトたちも大爆笑である。その爆笑の渦の中で、額を押さえる男性がひとり。
エミヤだ。
目を閉じて嘆息している。やってしまったか、という表情だ。軽く首を振って片目を開けると、しっぽと手をぶんぶんと振っているセタンタの姿が目に飛びこんできて思わず苦笑してしまう。
参加することに意義があるとまるで運動会に対する姿勢で授業に参加しているセタンタはある意味間違っていたが、正しかった。
「セタンタくん、あのね。わからないときは手を上げない。いいですか?」
「はい!」
返事だけはいい。
「相変わらずかっ飛ばしてんな、ガキ。あとで息切れすんなよ」
「うるせえ! 兄貴に言われたくねえ!」
そこでまたどっと笑いが起こる。もはやここは教室ではなく、演芸場かなにかか?といったありさまだ。エミヤは慌てて隣で野次を飛ばしたランサーの腕を引いてその目を見つめ、叱咤した。
「ランサー! 他の保護者の方に迷惑だろう、それにな、セタンタの頑張りは認めてやるべきで……」
「はあ? おまえアレ頑張ってるって認めんのか。空回りしてるだけだろ、単に」
「君な!」
「えー……」
はっ、と教壇のほうへ向き直るエミヤ。ついでに胸元を掴まれたままそちらを見やるランサー。
苦笑いして、教師は言った。
「保護者の方は、お静かに」
爆笑、三度目。今回はさすがにあなたそんなに笑っちゃ悪いわ、などと奥様に肘でつつかれている旦那様などもいるが、基本的に皆ほとんど素で笑っていた。エミヤはあたりを見回して赤くなると、そろそろとランサーを解放した。
小さくなって「……はい」と答えるエミヤ、それにならってか「はあーい」などと間延びした声でつづくランサー。
くすくすくす、とさざなみのように笑いは広がっていったが、やがて沈静化した。
「セタンタくん、そろそろ席につきましょう」
「はい!」
またもいい返事をして、倒れた椅子を起こすとセタンタは席についた。一度だけエミヤたちのほうをちらりと見ると、笑って手を振る。
エミヤもつられて笑顔で手を振って、我に返ったように咳払いをした。
それでは次の問題、と担任が教科書をめくるように指示する声がまだ笑い声の残る教室に響き渡った。


澄みきった秋の青空。
用意された跳び箱をぽんぽんと軽やかに子供たちが飛んでいく。飛べない子供は低いほうへ、飛べる子供は高いほうへ。
列はどちらも同程度の長さだ。
セタンタはといえば、
「よっし」
気合を入れて走りだすと、軽々と八段の跳び箱を飛び越えてきれいに着地した。これが完璧な跳び箱の飛び方ですと注釈をつけ教科書に載せてもいいくらいの美しさ。思わず、周囲から拍手が起こった。
エミヤも今度は安心してその拍手の輪に加わる。他の保護者たちよりもその音は大きかったかもしれない。
それを聞きつけたのかセタンタは振り返ると、着地のときに高々と上げた両手をそのままに、にっかりと笑ってみせた。
エミヤも穏やかに微笑み返す。ランサーはぱん、ぱん、ぱん、といささかやる気のない様子ではあるが、それでもしっかりと拍手はしていた。認めるところはきちんと認める。―――――いつも弟をからかってばかりに見える彼の兄は、そんなところもきちんと持っているのだ。


帰り道。
エミヤを中央に、三人は坂道を行く。
「なあなあエミヤ」
「うん?」
「今日のオレ、どうだった?」
期待に輝く赤い瞳を見つめ返して、エミヤは微笑む。答えなど決まりきっているという表情で。
「格好良かったぞ。セタンタ」
「へへ」
ぎゅうと握ったエミヤの手をさらに強く握って笑み崩れるセタンタ。首をかしげて、
「惚れ直したか?」
―――――咳きこむ音。
「セタンタ!?」
「えへへへー」
「どこで覚えてきたのかね、そんな言葉!」
照れか動揺か真っ赤になるエミヤの左手を取ったランサーは、そんな弟の問題発言をさらりと受け流して紫煙を夕焼け空に吐きだしつつ、
「ま、前半の失敗を後半で巻き返して、結果プラマイゼロ、ってところだな」
冷静な評価を下した。
む、と眉を寄せて、セタンタは兄を睨みつける。
「兄貴にはきいてない!」
オレはエミヤに聞いてるんだ、とセタンタが言えば、ランサーははいはいそうですか、とつぶやいてまた紫煙を吐きだした。
「そうだぞランサー、セタンタは頑張った。ゼロということはないだろう」
「そうかい」
「惚れ直したか? 惚れ直したか? エミヤ」
「だ、だからセタンタ、それはだな」
鴉がかあと鳴く。
てくてくと下り坂を行きながら、三人は家へと帰る。
「……そうだセタンタ、今日は褒美に君の好きなものをなんでも作ろう」
「ほんと!?」
「本当だ。なにがいい?」
「えーと、えーと」
口元に手を当てて考えこんでいたセタンタは、輝く笑顔で言いきった。
「ホットケーキ!」
「…………夕飯にか?」
「それはねえな」
また、鴉がかあ、と鳴いた。薄暗くなってきた遠くの空に、一番星がきらりと輝いた。



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