エミヤはいない。
そうわかっていると、帰り道の足取りも重くなるというものだ。エミヤはいない、エミヤはいない、エミヤはいない。呪文のように唱えれば足はずん、と重くなってまるで沼の妖精に捕まったようだ。
「ただいま……」
声にも元気がなくなる。坊ちゃんおかえりなさいという護衛たちの挨拶にも適当に返事をして、セタンタは廊下を歩く。
部屋に向かう途中に通った台所やエミヤの部屋にも、気配はない。―――――しんとして。静まり返っている。
なんだかじわりときた。
目をつぶって廊下をダッシュする。と、曲がり角から出てきた人影にどすんと真っ向からぶつかってしまって、思いきり跳ね飛ばされた。
「―――――! !? !?」
廊下に転がってごろごろ一回転半、ランドセルのせいで変な格好で止まってしまい、いててと呻く。
「なにやってんだ。サーカスにでも入団する気か?」
は、とまばたきをする。この声は!
「兄貴!」
慌てて起き上がればそこにはやはりランサーの姿があった。トレードマークのようになっている火のついていない煙草をくわえ、廊下にへたりこむセタンタの姿を面白くもなさそうに眺めている。がじり、と奥歯でフィルタを噛んだ。
どうして兄がここに。エミヤもいないのに。
エミヤが自らの不在を兄に知らせないはずがない。と、すると?兄は一体何の用事でここに来た?
むうと考えこむセタンタに、案外早く答えはもたらされた。
「エミヤから電話があってな」
首根っこを掴まれて部屋に連行されると、ランサーの口からそんな言葉が出た。エミヤ。その名にセタンタは素早く反応する。ほとんどパブロフの犬状態だが、だって仕方ない。
セタンタの大好きな大好きな存在、それがエミヤなのだから。
ランサーは菓子皿に入ったみかんを適当に剥きつつ、大ざっぱに筋も取らずかたまりで口に運ぶ。もごもごとその口を動かしながら、
「―――――自分が帰ってくるまでガキの面倒を見てくれ、だと。ったくよ、オレに子守りの真似事とは、心底似合わねえことを頼んでくれたものだぜ」
「子守りとかいうな!」
あとそれはオレのみかんだ!
がお、と吠えたセタンタに向けられる半眼。
「けちくせえな」
「兄貴みたいなのをぬすっとたけだけしいっていうんだ!」
エミヤはどうして兄なんかに自分を任せていったのだろうと歯噛みするセタンタ。エミヤのすることに間違いはないと思うセタンタだったが、これだけは間違いなんじゃないかと思う。犬猿の仲ならぬ猛犬VS子犬の仲のふたりを一緒に置いておいて、大丈夫だと思ったのか。エミヤ、エミヤ、ああどうして。
聞いてみたくてもエミヤはいない。仕事の関係で遠くへ出かけて、夜にならないと帰ってこないのだ。
むうっと頬を膨らませると、セタンタはごろりと寝転がった兄から離れたところに座った。礼儀正しく正座で。
足が痺れたってかまわない。自分は兄より出来る人間だ、というのをなんとなく見せておきたかった。
……その相手のエミヤはいないけど。
ぶんぶんと首を振る。
帰ってくるんだから。エミヤは、夜になったら。ちょっとの辛抱だ。夕飯だって、用意していってくれている。冷蔵庫にそうだ、おやつだって。
セタンタは立ち上がると台所へ走った。甘いおやつ。それが自分を癒してくれると信じて。
ちなみに用意されていたのは冷たくても美味しいスイートポテトだった。シナモンの香りがほんのりと漂い、セタンタの心のささくれをいたいのいたいのとんでけしてくれた。
ただ。
兄の分も当然のように用意されていたのが、ちょっとアレだった。
大人になれ大人になるんだ自分!
横からフォークでちょっかいを出してくる兄をかわしながら、ぐっと握りこぶしを握るのだった。
正座は三十分でギブアップした。


空は暮れていく。夕焼けのオレンジがコバルトブルーに侵食されていって、やがて夜になる。縁側でぶらぶらと痺れた足を揺らしていたセタンタは、時計を見た。六時半をすぎた、もうそろそろ夕飯の時間だ。
兄はいつのまにか寝ていた。本気寝である。それをゆさゆさと揺り起こして、まったくどっちが子守りなんだか、と思う。
エミヤの考えに間違いはないけれど。こればっかりは、ちょっと、何なんじゃないかなあ?
なんて、首を捻らずにはいられない。
いけないいけない。好きな相手を疑うなんて、男のカイショーがないと思われてしまう。それはいけない。
ねぼけまなこで目を覚ました兄は、大きなあくびをして後頭部をぼりぼりと掻いている。だらしねえ、とこっそりセタンタは内心で兄の口癖を真似た。
夕飯は、アジの開き、煮物とほうれん草の胡麻和え、味噌汁、漬け物、そして甘い卵焼きだった。
レンジで温めるものはセタンタが。火を使って温めるものはランサーが、それぞれ担当した。ちょうど七時にふっくら炊けた白米もよそって、エミヤほど上手には出来ないがおかずも盛りつけて居間まで運ぶと、なんだかんだでいつもの夕食の時間になった。
「いただきます」
おう、と平坦な答えが返ってきたかと思うと、ランサーは箸を手に取って里芋を口に運んでいた。セタンタも冷めないうちにと卵焼きを箸で小さくちぎって口に運ぶ。
「…………」
とたんに黙りこんでしまったセタンタを、鶏肉を口に運びながら兄が見る。
ことんと置かれた箸。
「もう食わねえのか」
「……食べる、けど」
「けどなんだ」
「兄貴、オレ、エミヤが好きだ」
怪訝そうな顔をして、兄がセタンタを見つめる。箸は置かない。色とりどりのおかずを口にしながら問う。
「んなもん、とっくに知ってる」
「うん」
「だからどうした」
「エミヤの作ってくれた卵焼きでも、エミヤがいないと味が全然違うなあ……って」
思って。
と。
言って、もちろん美味いんだけど、とつぶやく。
「兄貴だってエミヤのこと好きなんだろ? そんな風に思わないのか?」
「オレは大人だからな」
器用にアジの開きの身をほぐして、白米に乗せて口に運ぶランサー。
「おまえみたいにさびしいだとかそんなんで、エミヤの作った飯の美味さは左右されねえんだよ」
オレはあいつをきちんと好きだからな。
言って、漬け物を口にするランサーに、オレだって、とセタンタはつぶやいた。
「オレだってエミヤのこと、ちゃんと好きだもん……」
「なら、ちゃんと食え。飯粒のひとつだって残すな。あいつに心配かけることになるぞ」
セタンタは顔を上げた。
「それはやだ!」
「じゃあ食え」
「ん」
うなずくとセタンタは箸を取り、夕飯の続きに取りかかった。ぱくぱくと勢いよく用意されたものを平らげていく姿は勇ましい。
ランサーは味噌汁を啜ると、こっそりと目を細めて笑った。
意地の悪いと、人のいいと、半々の笑顔で。


そして九時ごろ、手土産を持って帰ってきたエミヤは、ただいまを言うより前に兄弟からの抱擁を受けて、目を丸くすることになる。



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