「エミヤ……」
名を呼ばれてエミヤは振り向く。微笑みを返そうとしたその顔が、次の発言で怪訝そうに固まった。
「たん」
「は?」
たん?
言ったほうのセタンタもどこか納得の行かないような顔をしてエミヤを見ている。ふたりはしばし見つめあいながら固まっていた。
ちくたくちくたくと時計の針が時を刻む。みゃあ、とこねこさんが鳴いた。
そこでようやく呪縛が解けたように、ふたりは動きだす。
「……おかえり、セタンタ」
「……ただいま、エミヤ……」
「…………」
「……エミヤたん」
「…………」
固まる。眉間に皺。セタンタも鼻の頭に皺を寄せている。じっとエミヤを見上げて。
「なんだね、セタンタ。“たん”というのは」
「オレもよくわかんないんだけど……」
セタンタは頭を掻きながらぽつぽつと語り始めた。帰り道、クラスメイトのカンタ少年に見せてもらったという漫画本。その中に『○○たん』、と呼ばれている少女の記述があったという。
「カンタにも聞いてみたけど、よくわかんないって言ってた」
だけど、とセタンタは言う。
「なんか、その漫画に大人気、大好評連載中って書いてあったから」
誉め言葉なのかなって。
こぶしを握って力説するセタンタに、エミヤは首をかしげる。さて、誉め言葉としてそんな言葉は聞いたことがない。敬称で『さん』というのならわかるが、『たん』などというのは初めてだ。どことなく舌ったらずな印象を受ける。けれどエミヤとて、世の中のすべての流行を知っているわけではない。もしかして、今そんな呼び方が流行っているのかもしれない、どこか局地的なところで。
ぽつり、とエミヤは言ってみた。
「セタンタたん?」
「…………」
「…………」
「…………なんか、違う気がする」
「そうか」
私もだ、とエミヤはうつむいた。セタンタもうつむく。顎に手を当てて考えこんでいる。なんだろう。一体。
「でも、何度も言ってみたらしっくりくるかもな!」
またもぐっとこぶしを握って力強く言ったセタンタに、エミヤはあっけにとられたようにうん?と答えてからうっかりうなずいてしまう。あ、と思ったときには遅かった。セタンタはよーしと気合いを入れて、大きく口を開けて―――――
「エミヤた、」
「なに廊下で頭悪りい会話繰り広げてんだこのガキ」
ずごん、と。
鈍い音を立て、ランサーのチョップが背後からセタンタの脳天に炸裂した。思わず目を丸くするエミヤ、息を呑んでうずくまるセタンタ。赤い瞳は涙目。気のせいかチョップを決められた場所からはぷすぷすと煙が上がっているように見えた。
なんという破壊力。
「ランサー!」
「暴力兄貴……っ」
うずくまったままでセタンタが振り返り、ぎっとランサーを睨みつける。冬木の子犬の迫力。
……と文字にしてしまうとそう大した迫力でもないように思えるが、潤んだ赤い瞳がらんらんと輝いていて結構おそろしい。将来を期待させる目である。
ワンランク以上は上の猛犬である兄は飄々とした赤い瞳でふたりを見やると、くわえた煙草に火をつけた。
そして、紫煙を吐きだして、ひとこと。
「あのな。そりゃ本当にごくごく局地的なところでしか流行ってねえ呼び方だ。ついでに言うと誉め言葉でもなんでもねえ。気軽に使ってると誤解されるぞ」
「そうなのか!?」
「本当か、ランサー」
「ああ。オレがおまえに嘘をついたことがあるか? エミヤ」
「オレにはあるけどな」
小さくつぶやいたセタンタは無視して、ランサーはつづける。
「誤解されたくなきゃ金輪際そんな言葉使うなよガキ。エミヤ、おまえもだ」
「あ、ああ」
「ん…………」
慌てたようにうなずくエミヤ、納得が行かなさそうではあるがしぶしぶうなずくセタンタ。
よし、と腰に手を当てて、ランサーは大きくうなずいたのだった。


「ところで兄貴、なんでそんな詳しく知ってるんだ?」
「私も気になるな。どうしてだ?」
「世の中には知らなくていいことがたくさんあんだよ、聞くな」



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