「よお」
背後からの呼びかけに首だけで振り返る。ちら、とだけ眺めて再び前を向くと大して不満でもなさそうな声が聞こえた。
「なんだよ。ここにいるからって別にいつもの釣りってわけでもないんだろ? 格好は普通だしさ」
「…………」
「それともひとりで海でも眺めたい、そんな気持ちだったりするのか? ああ、そんな感じだよな。すごく、そんな感じだ」
勝手に言って笑う。それに振り返らずにつぶやいた。
「擬態するのならもっと上手くやることだ。私だからという問題ではなく、他の相手にとてそれでは“違う”と気づかれるだろうよ」
瞬間、楽しげな笑いが止む。しばらくは風が服の裾を揺らす音と波の音。
性質からして近寄ってくるかと思えたが、意外にも場所を動かずにそのまま話しかけてきた。
「なあんだ。すぐバレちまいやんの。あーあ、つまんないなー」
砕けた口調。その姿からすればありえないものだったが動揺もない。ただ、この時に現われたというのが少々の疑問だった。
夜に活動するべきものが燦々と太陽の照る時間に現われるなど、箱庭ではルール違反だろう。
「今はまだおまえの出番ではないはずだが。おまえの舞台は夜であって昼は衛宮士郎の時間だ。寝ぼけでもしたのか?」
「いいや、ちゃーんと起きてますとも。でもなんとなく暇でさー、なんていうか第一難関は突破したもののそれから全然進んでくれないデショ? わざとなのか知らないけど寄り道ばっかしちゃって自分ばっか楽しんでさ、それはずるいんじゃないのって思ったわけですヨ」
「……おまえと遊んでやる気など、私にはないが」
「えー。遊んでよー。カワイイカワイイ狂犬ですヨー? 動物好きでしょ、あんた」
たとえば猛犬とかさあ、と言ってげらげらと笑いだす。先程と違って風に乗る響きはひどく狂的だった。青空、陽の光、潮風。爽やかなそれらすべてを歪めるほどに、いびつだ。
思わず眉間に皺が寄る。
猛犬、という暗喩が何を、誰を指しているというかくらいわかる。殻、本人であればそんな言い方はしない。
下卑ているが純粋な言い方など、絶対にしないだろう。
「でもって、あんたは忠犬。あくまの言うことを聞くカワイイカワイイ忠犬。あっれえ、なんだ。オレたち犬同士じゃん。ならさ仲良くしよーよー。それに一応オレも悪魔だし、ネ」
「何がそれに、なのかわからん。私は凛と繋がってはいるが盲目に尽くすほどの忠義は持ち合わせていないしそれほどに健気でもないよ。しかも繋がりは最低限だ。きっと主従たちの中で一番、薄っぺらい繋がりしかない」
「そっかな? オレが見る限りそんな風には思えないけど」
「その目で何がわかる」
「わかりますよー? それはもう、いろいろと」
「自慢したいのならまず、目の色を変えてくることだ。姿形と口調を真似ても、肝心の目がそれでは話にならん」
「げ。マジで」
やや焦ったような声に振り返る。すると、きょとんと目を見開いて自分の顔をべたべたと触っていた。必要ないだろうに、頬を引っ張り伸ばしたりまでしている。
ぱちぱちぱち、とまばたく黒い瞳。
―――――普段の琥珀色とは似ても似つかない。
「あっれー……なんでかな、ちゃんとしてるつもりなのに。ほら、模様も出てないデショ?」
「出番でもないのに出しゃばってきたからだろう。当然のペナルティだ」
「いいじゃん、ちょっとくらい大目に見てくれたってさー。オレだって戦って死んでばっかなんてやだもん。お日さまの下で楽しく遊んだりしたいです」
「それが夜のおまえの役割なのだから、仕方ない」
「わー、取り付く島もないなー。あんた、オレのマスターとおんなじタイプだよ。体ばっか成長して中味が追いついてないとことか、お堅いとことかさ。大事に大事にしてメチャクチャにしたくなっちゃう、オレの大好きなタイプ」
「矛盾しているな。被った殻の影響か」
「いいえ、元々ですヨ」
「悪趣味だ」
「お褒めの言葉、どうも」
芝居がかって一礼すると、にいっと口端を吊り上げる。赤銅色の髪が揺れ、黒い瞳が沈む。
「しっかし目の色か。カラーコンタクトでも買おうかなー。あーでもオレ金持ってないや。マスター、貸してくれるかな」
「……やめておけ。買ったとしても無駄になるだけだ。手に入れたとしてもうおまえに使う機会はない。おまえが夜でなくこの時に現われることが出来たのは何かの気まぐれからで、おそらく二度とその気まぐれは起こらんだろうからな」
「……だよな」
あっさりとあきらめ、空を仰ぐとあーあ、と声を漏らす。
「それにしても、昼間ってこんなに明るいもんだったんだ。オレの時代に比べれば今は、夜でもそれなりに明るいけどさ。やっぱり昼と夜とじゃ全然違う」
どこかしみじみとそう言ってそれじゃ、とやはりあっさり別れの言葉を口にする。
「名残惜しいけどそろそろ正義の味方に戻ることにします。でないとずーっとオレも、オレのマスターも先に進めないままだし」
「それがいい。このような茶番、なるべく早く終わらせるべきだからな」
「なに言ってんのさ。終わったら終わったで寂しいくせに」
「誰が寂しいものか」
アハハ、と空々しい笑いが青空を渡っていく。
「ほんっと、いじっぱり」
あんたほんとマスターとおんなじだよ、と笑みを消さずに言って、その場を後にする。
遠ざかっていく小柄な体、見慣れた後ろ姿。
見送るわけではないがなんとなく見ていると唐突に振り返り、投げキッスなど飛ばしてきたので盛大に嫌な顔をすれば、人目も気にせず体をくの字に折って爆笑していた。


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