「こんにちはアーチャー。ご機嫌いかが?」
小さな淑女はスカートの裾をつまんで頭を下げると、顔を上げ満面の笑みを見せた。
「イリヤスフィール、レディがそのように笑うものではない。教育係が飛んできて叱られてしまうぞ」
「あら、大丈夫よ。セラは近頃、シロウにかかりっきりで忙しいもの。わたしそっちのけでシロウを追い回してるわ。だから、わたしがこうやってあなたに会いに来られる」
それにしても、とイリヤは一転不満そうになって、
「随分とわたしを邪険にするのねアーチャー。同じ舞台袖の仲じゃない。もうちょっと仲良くしましょうよ」
「君は私よりも華があるだろう、イリヤスフィール? もっと遊んでくるといい。あの未熟者とて、いつかこの箱庭の果てに辿りつく。そうすれば終わりが来る。それまでは楽しく遊ぶといいさ」
「それはあなたも同じでしょう。限りあるお祭り騒ぎだもの、楽しまなくちゃ損だわ。ね、だから独りでいないであなたも表舞台に出てきたらどう? アーチャー」
「……それは、無理だよ」
皮肉にでもなく一刀両断するでもなくそうつぶやけば、イリヤの顔から表情が失せた。赤い瞳がぱちぱち、とまばたきする。
波の音。港にいるのはあまり人がやってこないからだ。身を潜める場所は案外この箱庭には少なく、選ぶとすれば山や雑木林、そして、ここくらいしかない。
公園や学園、果ては衛宮邸になんて足を運べるはずがない。
「だから、君は楽しんでくるといい」
行けるのだから、と言って浮かべられる精一杯の笑みを浮かべた。小さな淑女、小さな姉は多少でも殻を脱ぎ捨てられる相手のひとりだ。
それでも手放しに甘えることは出来ないけれど。
役目は終わった。
ならば自分は裏方に徹するべきなのだ。
「…………」
「さあ、もう行くといいイリヤスフィール。あまり長くいると髪に潮の匂いが移ってしまうぞ」
「そんなの、わたしの勝手だわ。わたしはわたしのしたいようにするの。知ってるアーチャー? わたし、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンなのよ?」
誰の指図も受けないわ、と胸を張って言い、直後に笑う。白く艶のある長い髪を潮風が散らした。その姿に刹那、奪われる視線。
合間を縫って傍らに小さな体が座りこむ。
「……せっかくのドレスが汚れてしまうぞ、イリヤスフィール」
「わたしは主演女優じゃないから大丈夫よ。昼の部も、夜の部も脇役。でもね、お芝居って主役だけじゃ務まらないのよ。ちゃんと脇を固める面子がいないと駄目。裏方だってねアーチャー、立派な役目を持ってるの」
膝を抱えたイリヤは首をかしげ気味にして見上げてきながらつぶやく。波の音。
今、この一時がまるで芝居の一幕のようだ。
主役は不在で、脇役同士が語る。派手さはなく音楽は波の音だけ、大した面白味もない。それでも彼女はここにいる。ぬくもりを持って、ここに。
「だから、自分が仲間はずれなんて思ったら駄目なのよ」
強く目と声に力をこめて、イリヤは言った。
大声でもなければ叱咤する口調でもなかった。普通の大きさの、静かな語り口だったがひどく胸に迫る言い方だった。
「―――――さすがイリヤスフィール、君は素晴らしい女優だ」
「単なるわがままな子役だと思って侮ってた?」
「まさか。君は思慮深い、人を気遣えるれっきとした大人だよ。外見に惑わされる輩もいるかもしれんがね」
「シロウのこと言ってるのね」
相変わらずあなたたち仲が悪いの、と言って肩をすくめ、かすかにイリヤは眉を寄せて笑う。
「さて。私は衛宮士郎だとはひとことも言ってはいないよ」
「あなたはめったに人の悪口は言わないでしょ。皮肉は言うけど本気になって張りあうのはシロウ相手だけ。ほんと、仕方ないんだから」
くすくすと潜めた笑い声。
「それと、セイバーとリンも、サクラも。気になるでしょ。そういえばリン、ロンドンから帰ってきてるわよ。会わないの?」
「会わんよ。必要がない」
「つれないのね。それに必要がないと会っちゃいけないの?」
「私にとってはそうだよ。必要と、それも意味もなく誰かと会うことは無駄でしかないと思う」
「じゃあこうして、わたしと会うのも無駄?」
覗きこむように見上げてくる。赤い瞳が陽の光を受け取ってきらめいた。
赤い。
あの宝石を、思いだす。
口で言っていることと心で思うことが違う、と自らに呆れながら。
「君とこうしている時間は、無駄ではないと思うよ」
浮かべた表情を見て、イリヤが目を丸くする。だがすぐにうれしそうに顔を輝かせて、
「―――――良い子ね」
そう言って、体ごとぶつかるように抱きついてきた。
繰り返し昼の部と夜の部で上演される舞台。
自分の出演する演目は既に終了した。カーテンコールは、ない。
後はただ舞台が終わりを迎えるのを待つだけだ。

「ねえ、アーチャー」
「何だね」
「木から下りられなくなった猫を助けたらしいってシロウに聞いたんだけど、ほんと?」
「! ……あの小僧は、相変わらず口が軽いことだ……」
そして軽率だ、とつぶやけば抱きついたままイリヤが顔を上げてむくれる。
「動物に優しいのはいいことだけど、猫だけは駄目よ。猫は駄目」
「……何故だね」
「わたしが嫌いだからに決まってるでしょ」
「…………」


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