庭で叫ぶ声が聞こえる。
「ですからそのような取り引きになど応じられないと言っているでしょう! そもそも取り引きですらありません、本当にあなたは横暴すぎる! それでも神に仕えるものですか!?」
「落ち着きなさいバゼット。声が大きいわ、ご近所の迷惑でしょう? ただでさえ鍛えたあなたの声量だもの、立派な騒音公害よ。それとわたしが横暴というのは聞き捨てなりません。ランサーを返す代わりにその腕を渡せ、と。わたしは至極当然なことを言っているだけよ。等価交換は世の中の常識でしょう」
「あ、あなたが常識を語りますか!?」
「それにねバゼット、ランサーはもうあなたのものではないの。だから返すだとかまずそこから間違っているのよ、わかる? 持ち主でないものに返すも返さないもないわ。一度手から離れたものはね、もうそこで所有権がなくなるの。自分の不注意で落としたものを拾われて、返せと駄々を捏ねるのは子供のすることよ?」
「―――――あ、あなた、人が下手に出ていればいい気になって……!」
「あら。いつあなたが下手に出ていたのかしらバゼット?」
「実力行使に出ていない時点で全力で下手に出ています!」

ぱりん、と小気味のいい音が鳴った。
ちゃぶ台に肘をついて口で煎餅をくわえた凛は横目で庭を見ながら、
「なんというか。修羅場ね」
あまりにもあっさりとした感想に桜がうろたえる。ね、ねえさんったら、などと言ってみせるが執行者とシスターの間に入っていくつもりはないようだ。例の影を使えばふたりを拘束するくらいお茶の子さいさいだと思えるのだが。
ふたりとも喧嘩はやめてくださーい、とかそんな感じで。
煎餅を食べ終えて緑茶をすすると、ため息をつき凛は目の前で頭を抱えて突っ伏した家主に向かってたずねた。
「大丈夫衛宮くん?」
「大丈夫なわけないだろ……!」
あああもう、と頭を抱えたまま士郎が呻いた。まさに苦悩する青少年の見本である。レポート付きでサンプルとして、学会に提出してもいい。
とある青少年S.Eの苦悩の過程とその解決案について。
今度はせ、せんぱい、と桜がうろたえる。あっちでおろおろこっちできょどきょど。いっそ吹っ切れてしまえば楽になるものだけれど、昼間からそれはどうだろうと彼女自身も思っているのかもしれない。
夜なら平気だとかそういう問題でもないが。
「また近所で変な噂が立つ……人付き合いでこういうのって本当致命的なんだからなああもう……!」
「受け入れたのは衛宮くんでしょ。潔くあきらめなさいよ」
「言いだしたのは遠坂だろ!」
「受け入れたのは衛宮くんでしょ」
二度言った。
二度言った。
言い切った。
士郎は言い返せずにケダモノのような勢いで上げた顔を曇らせて、また頭を抱え、突っ伏した。
一部始終をおろおろと見守っていた桜が余計におろおろする。
「せ、せんぱい、その、あの」
「桜……いいんだ桜……ありがとうな……」
つぶやく語尾が聞こえない。ボリュームミュートまっしぐら。ついでに暗黒面にもまっしぐら。シスターの思惑通りである。
「まさか一週間という短い期間の二日目からこれまでの大戦争が始まるとは、わたしも予測してはいませんでした」
本を読んでいたライダーが冷静に言い、眼鏡のブリッジを指先で押し上げる。レンズの奥の四角い瞳孔。
「士郎。寛容なのは結構ですが次回からその寛容さ、ご利用は計画的に。僭越ながらわたしからの忠告です」
「……はい」
「ライダー、あまりシロウをいじめないでほしい。シロウの寛容さはまごう事なき美点だ。朝昼晩と振る舞われる料理と同じほどに素晴らしい。……ああ、今朝の卵焼きは絶品でした……」
うっとりとセイバーが頬を染めて回想に浸る。というか、よだれよだれ。
「二日目……二日目か……まだ二日目なのか……」
あと何日?と計算するのも放棄したのか投げやりに士郎がつぶやく。答える者は誰もいなかった。代わりに庭での会話が応える。

「あれもほしい、これもほしい。バゼット、それでは世の中なんて渡っていけないわよ。人が一生に手の内に入れられるものの数なんて決まっているの。無限など有り得ない。……ああ、バゼット、あなたにぴったりの言葉を思いだしたわ。“二兎を追うものは一兎も得ず”。覚えておいてね?」
「人を子供のように言わないでください! あなたの方が年下のくせに!」
「肉体年齢より精神年齢の方が大事よ。体ばかり育っても中味が伴わなければ仕方のないこと。ねえバゼット? そんな人、心当たりがあるでしょう?」
「あ、あなた……!」
「夢見る乙女でいられるのにも期限があるわ。それと、想う相手はひとりに決めたほうがいいと思うのだけれど。だって本気を疑われてしまうから」
「わたしはランサーにそのような感情を抱いてなどいません! 彼はわたしの憧れの英雄であり、それ以外の何物でもありません!」
「…………」
「何か言いなさい!!」
「喋れば癇癪を起こし、黙っても癇癪を起こす。バゼット、あなたもう少し大人になった方がいいと思うわよ」
「い、言わせておけばカレン、あなたという人は……っ!」

士郎は背に水子のごとく影を背負っている。
「……ヒヒヒ、もう死んでしまいたい」
「せ、先輩!」
「衛宮くんが死んだらストッパーがなくなって余計にあのふたりは暴走すると思うけど。間違いなく」
「でしょうね」
「シ、シロウ! あなたが死んでしまったりなどしたらわたしはどうしたらいいのですか! 今夜はすき焼きの約束でしょう!?」
「セイバー。あなた、最後の一押しをしていますよ」
抑揚なく言ってライダーがページをめくる。彼女の言葉通り士郎はちゃぶ台にめりこまんばかりの堕ちこみっぷりだった。
誤字ではない。
「大丈夫よ、なんだかんだ言って衛宮くんタフだから。死なないわよ。ポジティブに考えなさい? 女の子に囲まれて幸せだなーって。そう思えば乗り越えられるわよ。保証はしないけど」
「……もういいよ、何とでも言ってくれ」
「シ、シロウ! 凛! ですからシロウを落ちこませては今夜の」
「だから大丈夫だってば。もし衛宮くんがダメになっても、ねえ? アーチャー」
さりげなく凛が声をかけたのは台所に向かってだった。そこからは返事が返ってこないが、無言で佇んでいる気配はある。
「…………」
「アーチャー、あなたがすき焼きを作ってくれるのですか!? あなたがわたしの」
「ストップ。そのネタは使い尽くされてるから。セイバー」
よっぽど上手いこと言わないと駄目よ、と言って凛はまた煎餅を手に取る。
「それにしてもあれだけきれいに別れておいて、またすぐ顔を合わせるっていうのはあれよね、コント?」
「……言うな、凛」
台所から小さく聞こえる低い声。眉間に皺を寄せ、額を押さえている姿が見えるかのようだ。
そしてあの私服にちゃっかりエプロンを着た姿も。
「そもそもどうして私はここに……」
「いいじゃない、ふたり増えたらもう何人増えても一緒よ。ねえ、衛宮くん?」
「ね、姉さん!」
「さすがリン。躊躇いも容赦もありませんね」
「ええ。わたし、自分に正直に生きたいの」
「同感だわリン。わたしも同じよ」
甘く高い声が唱和して、白く小さな手が菓子皿に伸びる。饅頭を手に取るとふたつに割り、イリヤはその半分を言葉もない士郎へと差しだした。
「ほらシロウ、元気出して。わたしがついてるわ。あ、アーチャーのこともちゃんと見てるから、ヤキモチ妬いたら駄目よ?」
「……誰が妬くか。子供でもあるまいし」
「弟はね、お姉ちゃんからすればいつまで経っても弟なの。年下なの。可愛い子なの」
リズムに乗ってテンポよくきっぱりと言ったイリヤに、台所の向こうからは沈黙しか返らない。それと懊悩している気配。
「よおアーチャー、……って、何しっぶい面してんだ」
「君はどこから入ってきているのだね!」
「窓」
「そういうことを聞いているのではない!」
「いやわかってるけどよ。玄関や庭からとか無理だろ。あの状態でオレが出ていったらどうなると思ってんだおまえ。地獄絵図だぜ」
「知らん!」
「いや、落ち着けよ」

わいわいとはしゃぐ声。
停滞する四日間は終わり、前に進み始めた日常。
何の奇跡か気まぐれか、消えるはずの面子が軒並み残って騒がしいことこの上ない衛宮邸でふたりのエミヤシロウは、そろって頭を悩ませるのだった。
それもまた、有り得た形の可能性の欠片。


.....restart?


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