「成果はあって?」
艶めいた声に振り返れば、魔女の姿があった。あまりにも珍しく、反応が遅れてしまうと彼女は不機嫌そうに、
「なあに、無視ってわけかしら? 生意気ね。犬か猫に変えてあげてもよくってよ」
「どちらもやめてくれ、猛犬に同類扱いされるのも小さな姉に悲鳴を上げられるのも勘弁したいところだ。ところでマダム? いつでも傍にいる伴侶はどこに?」
「あら、マダムだなんてあなたもいっぱしの口をきくようになったのね。……これだけ繰り返せば当然のことかしら」
そうか。
この魔女は、箱庭のからくりを知っているらしい。まあ、前に述べた猛犬や小さな姉も察しているだろうが。だからこそ、少女と女性のふたり連れが帰った後にやってきてやれ自分と遊べだのやれ駄犬は帰れだの丁々発止の大喧嘩。何とか言い含めて帰らせたものの、あれには参った。
「宗一郎さまは海を眺めてらっしゃるわ。風情があって、素敵な御方よね」
「……よね、と合いの手を私に求められても困るのだがね、マダム。その幸福な夢を一体いつまで見ていられるか、その遠見の能力で見通せはしないか?」
「いやね、やめてちょうだい。どうしてわたしがわざわざ夢の終わりを自ら視ないとならないの? どうせ期限がある夢なのよ、その間だけは楽しませてくれたっていいでしょう」
「ランサーは消えたが。そろそろ終わりは近いと、私は思うよ」
伴侶の古着を改造して作ったという魔女の服が風になびく。彼女は一瞬、ひどく冷たい顔をした。まるで不意に手を滑らせて人を殺してしまったかのような。
「……あなた、懇意にしていた狗が消えても泣きもしないの。きっと涅槃で泣いていてよ」
「あまりにも急なことだったのでね。小さな姉と一緒に引き上げていってからまたひとりでやってきて、打ち明けられたよ。今夜、人を殺す、とな。女をひとり、どうしても殺さなければいけないのだと」
「……そう。あなた、嫉妬して?」
「誰にだね」
「その、女によ」
しばしの沈黙が流れる。波が波を揉む音。引いては寄せての繰り返し。繰り返し、そう、この箱庭のようだ。
けれど、あの男は帰ってこない。
「嫉妬などしないよ。ただ、憎いとは思った」
「…………」
魔女は驚いたように目を丸くして、あら、とだけ言った。それから、
「あなたにもそんな感情があったのね。……そうね、人だったのだもの。あって当然だわ」
「――――君に私の、何がわかる」
魔女は。
今度こそ驚いたように目を丸くした。今度は何も言わず、ただ目を丸くしていた。
「君に、私の何がわかる。先の聖杯戦争で得た答えとやらも本物かどうかわからない。自分自身もまがいものかと疑う、そんな気持ちをやすやすと誰かにわかってもらおうなどと誰が思う。小さな姉でさえきっとわからない。私自身がわからないのだから、きっと他の誰にだって――――」
「あなた、馬鹿ね」
「!」
冷めた目で魔女はこちらを眺めやってくる。馬鹿ね。そうつぶやいた言葉を体現したようなまなざしだった。何故そんなまなざしを向けられるのかわからず彼女を睨みつけると、馬鹿ね、と彼女はもう一度つぶやいた。
「あなた、愛されていたのよ。そしてあなたも愛していた。それなのに一体どうしてその気持ちをまがいものだなんて疑うの。わたしは宗一郎さまに出会って愛を知ったわ。それで今までの自分がどれだけ馬鹿だったか知った」
ただ、あなたは言えばよかったのよ。魔女は言う。
「行かないでと。言えばよかったんだわ、あなた」
いかないで。
かつて幼い自分が口にしようと思って出来なかった言葉。養父が不意に“仕事”に出かけることになって、けれど引き取られたばかりの自分はそれがとてもとても不安で。
このままこの人が帰ってこなかったらどうしよう。また自分は独りになってしまうんだろうか。いかないで。いかないで。
お願いだから、自分を置いていかないで。
「……それで、ランサーは留まったと?」
「それは知らないわ。けれど、あなたの気持ちはあの狗に伝わったでしょうね」
「そうすれば、私はまがいものではなく、」
「それ以上のことは、わたしにはわからない」
そもそも、あなたの気持ちもわたしにはわからないしね。
魔女はあっさりとそう告げると、踵を返した。まただ。また、そうやってどこかへ行ってしまう。
けれど言えなかった。それ以上のことはわからないと言われて、その後を追うことは。
いかないで。
魔女の背に向かってそんな言葉を投げかけることは、今の自分には出来なかった。
魔女は伴侶の元へ向かっていく。自分は独り、取り残される。
小さな姉に相談することも出来ず、自分は独り、この箱庭に取り残されるのだ。


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