はあ、と吐く息が白い。
そんなわけがないのにまるで人の頃に戻ったようで、自分には要らぬ感傷だとすぐさま打ち捨てた。
だというのに。
「よお、なに浸ってんだアーチャー」
後ろからいつの間にか忍び寄られていたのか、がしりと首に腕を回される。誰だと問う暇もない。声と、腕の感触と、体温とですぐわかった。
「……ランサー」
はあ、とまた息を吐いたが、その吐息は先程のものとは意味合いが違っていた。先程のものが感傷ならば、今のは――――安堵。安堵?まさか。そう、切り離すことが出来ない自分にやや驚く。いつものように切り離してしまって、振り返ることもせずに、忘れてしまえばいいのに。そう。今日は大晦日だ。午前零時になれば全てが塗り替えられたように変わる。
そんなようにして、全部忘れてしまえれば。
「皆、居間で楽しそうにしてるぜえ? だってのにおまえさんは、なんでまたこんなところに独りでいるかねえ」
「慣れないんだ。ああいう、大所帯にはな」
言って体を縮めるようにする。だけれども、それに合わせて腕は密度を増して巻きついてくる。熱い体温。冷たい自己にそれが伝染ってきそうでぶるりと体を震わせた。
「ん? どうした、寒いのか」
こんなところにいるから――――言いながら彼は体をさらに近づけてきて、
「離してくれ!」
パン。
思いのほか大きく響いた音に驚いていたのは彼もだったが、それよりも自分の方が余程驚いていた。
白い肌に赤く腫れた痕は目立つ。そう強く振り払った気はなかったのだ。本当に。
そんなつもりはなかったのに。
「……あ」
短く声が漏れる。そうすると動揺しているのがまるわかりで、みっともないことこの上なかった。だが、そんなことを気にしてはいられない。目の前の男。赤い瞳を丸く丸く丸くして、こちらを見ている。だから思うのだ。
ああ、やってしまったな、と。
この男とは短い付き合いでもないけれど長い付き合いでもない。中途半端、というのが一番合っているか。それだから、実に中途半端に自分は彼のことを知っていた。
「馬鹿野郎」
彼は目を眇めてこちらを見る。間近で見る赤い瞳は圧巻のひとことだった。なのに、声は、やさしくて。
「嫌なら嫌だって言やいいんだ。ならオレもほっといてやる。だが違うだろう? おまえは本当に嫌じゃないはずだ。オレの自惚れって線もあるが、そいつは違うってオレは思ってる」
おまえは誰かを傍に置いておくのが嫌な性質じゃない。彼はそう言って顔を傾ける。
――――唇を、奪われた。
「…………ッ」
ついさっき打ち払った手よりも自分の顔は赤くなっているだろう。温度でわかる。五感でわかる。そういうことには慣れていた。自分は、ひどくそういうところがアンバランスだ。
……と、目の前の、男によく言われた。
「なあ」
笑顔には少し足りず、真顔には多少届かず、結果奇妙な表情を浮かべて男は口にする。
たった今、自分の唇に合わせてきた唇で。
「今日は年越しってやつだろ。そいつをオレはおまえと迎えたい」
年がら年中べたべたしていたい奴じゃねえけれど、と男は前置きをしておいて。
「でも、いられる限りオレはおまえと一緒にいたい」
「…………」
「うん?」
どうした?と首を傾げる男になるべく視線を合わせないようにして、ようやっと平常を繕って声に出す。
「矛盾、している」
「そうだな」
「わかっていて……」
「言ってるが?」
それがどうした?
今度こそ、男はにっこりと笑ってそう言った。今度こそ完璧な笑顔だった。元が端正なもので、そうやって笑うとどきどきとさせられて、たまらなくなってしまう。居心地が悪くなるというのだろうか、この感覚は。それとも。
むず痒いという、のだろうか?
「……君は」
「ん?」
「恥ずかしい、男だ」
「そうか?」
だとすると。男は言う。
「おまえさんは、今恥ずかしがってるってわけだ」
「…………」
「黙秘権ってやつは認められねえぜ」
逃げたいか?
笑って男は言う。だけどな、そう続けて。
「逃がさねえぜ。ようやく捕まえたんだ」
今年だけと言わず、来年も、な。
「……よろしく頼むぜ? オレのこいびと」
「なっ」
……にをいっているんだきみは!
そう言いかけた言葉は再度唇に吸い取られて消える。居間に人がいるというのに。それもたくさん。相当の数が。
熱烈なキスをされて、解放されて、口をぱくぱくとさせていると今度は頬に唇を落とされて。


「じゃな。待ってるぜ」


するっと腕から解き放たれて、男は笑いながら背を向けて喧騒の中に戻っていく。その名を呼ぶ声、何やら剣呑な声、脳天気すぎるほど明るい声。
様々な声がわあっと自分までをも襲って、思わず言わずにはいられなかった。
「……何なんだ、」
何なんだ、なんてわかりきっている。
太陽神を父に持つ男。光の御子。暗さに片寄る自分を笑って引きずりだしてくれる手の持ち主。


ランサー。クー・フーリン。アルスターの誇る英雄。


「アーチャーさーん! そんなところにいないで早くこっちに来てくださいよう!」
かつての姉が呼ぶ声がする。でも、そこにはあの男が待っていて。
「…………、」
ふ、と笑うと暗闇から足を引き上げて居間の喧騒に向き直る。……いつ。
一体、いつまで“彼の元に”いられるのかはわからないけれど。
年を越すまでは、許してもらえるだろう。
立ち上がって歩いていく。顔、顔、顔の中、笑う男の顔を見つけて。
苦笑にはなったが、何とか彼に向けて笑ってみせたのだった。


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