「釣れるか?」
「まあまあ」
そう振り返りもせず返せば、背後から顎を捉えられて振り向かされ、そのまま唇を奪われた。
見ている者はない。ざざん、ざざん、と繰り返す波音。それに耳を、身を委ねながらただ奪われるのに任せた。
やがて……ぷは、と息を継ぐ音がして近かった白と赤と青が離れていく。それが少し惜しくてそれでも声は出さなくて、耐える自分がそこにいた。馬鹿な奴だ。
欲しがればいいのに。もっと。もっと、と。そしてその末に求めればいいのに。
彼から与えられる“死”を。
この繰り返される箱庭からでさえ、断ち切られるような決定的な“死”のしるしを。
「何考えてやがる」
「君のことだよ」
ふふ、と嘘の笑いを醸しだして返答すれば気付いたのか、機嫌の悪そうな顔をしてみせる。それすら愛しくてたまらなくて、早く殺してくれないものだろうかと隙さえあらば死を求めた。
せっかく。
かつてのマスターであった彼女、遠坂凛が救ってくれた命だったというのに。彼女の父が十年間に渡って込め続けたという魔力を全て使ってでも助けてくれたという、そんな命だというのに。
たいせつな。
いのちだと、いうのに。
それを自分は、自分から捨てたがる。
“昨日”現れた、彼からの死を知らずにその身に受けるであろう彼女に嫉妬して、それでも生きたがるであろう彼女に存分に嫉妬して、ならば代われと。
そこをどいて、魔槍で心臓を貫かれる役目を譲ってはくれないかと。
平伏してでも、頼んでいただろう。例え土下座をしてでも。どんなにみっともないことをしてでも。
死にたがった、ことだろう。
けれどたぶん、それを言ったら彼は私を殴るな。
アーチャーはそう考えて内心で笑った。この死にたがり。助かったくせにどうして死にやがる。そんな口調で彼は言うのだ。この死にたがりと。
嬢ちゃんに救ってもらった命から始まったおまえの運命じゃねえか。それを。
……彼は、知らない。自分を初めに救ってくれたのは彼女ではなくひとりの男。名を、衛宮切嗣という。彼は第四次聖杯戦争の終結によって訪れた大災害で家族一同を失った自分を救ってくれた。そして生きる術を与えて、アンリマユの呪いによって死亡した。
哀れな、男だったと思う。いつでも罪の意識に悩まされてひとり奔走していた。それを幼い頃のアーチャーは不満に思っていたのだけれど。
どうして家にいてくれないんだろう。ひとりは、独りは寂しいよ。せっかく救ってもらった命。
それを独りで抱えて家にいるのは、とてもとても寂しいよ。
けれどやがてそんな孤独にも慣れて、藤村大河というある意味もうひとりの家族も出来て。
自分の生活は一変した。切嗣が呪いで老いて、外に軽々しく出られなくなったということもあるだろう。それを幼い自分は喜んだ。喜んだのだ。
――――なんて、勝手な。
もうすぐ死んでしまうだろう人を傍に置いて、傍にいてくれるのだと思って、喜んだ。
そんな子供だった自分が、今考えると、とても恐ろしい。
それはもはや人ではなく、子供の姿をした化け物だ。
そんな中でも自分はばたばたと騒がしく生活していた。“姉”である彼女に振り回されて。“父”である彼の世話をして。
過ごしてきた。終わりが来るのを知っていながら、ただ散漫と過ごしていた。
それだけだ。それだけの話だ。
さて、目の前の男の話である。
「ランサー」
「何だ」
「君、今晩ひとを殺しに行くのだろう?」
途端。
殺気が尖ってアーチャーを刺す。無論、アーチャーに向けられた殺気ではなかったが、押さえ込められていたそれが一気にアーチャーの言葉をきっかけにして、弾けたのだ。風船に包まれた状態だったようなそれは、ぱんと薄膜が弾けたことで辺りに中味が垂れ流され、爽やかな空気を完全に物騒なものに塗り替えた。
「どうして」
おまえが、それを。
続けて言おうとされた台詞を、微笑みで止める。私はね、ランサー。知っているんだよ、この世界のこと。
君と同じくね。
だからねランサー。知っているのが自分だけだと思わないことだ。そんなんじゃ痛い目を見る。たった今、今のように。痛い目を見るよランサー。そして君は、地獄に落ちる。主君殺し、女殺しのゲッシュ。
それをその身に跳ね返されて、呪いを受けて、死に至る。箱庭にはもう、戻って来れない。“全て”が終わるまで。それまで君はきっと帰ってはこれないから。
だからその前に言っておくことがあるんだ。
「ランサー」
ゆっくりと、アーチャーは微笑んで。
「好きだったよ。君のことが」
彼が。
目を見開くのを、アーチャーは網膜と言う名のフィルタに焼き付けた。赤い両目を見開くのを。それは何にだっただろう。単純に驚き?それとも他の?
くちづけまでしたくせにランサー、どうして驚くんだろう。自分ばかりだと思っていた?相手を愛しているのが。
残念だったねランサー、私はどうせ逝くのなら満足してから逝きたいと願うようになったんだ。わがままになったんだよ。子供になったんだ。
子供の頃に出来なかったことを今しようと思ってね。子供らしくない子供だったから、せめて今だけはと。
せめて今だけは、子供でいようと思ったんだ。だから聞いてほしいんだ、わがままを。
「なあ、ランサー」
もう一度。もう一度、だけでいいから。それ以上のわがままは言わないから。アーチャーは言った。願いを込めて。
「君が死んでしまう前に。……もう一度だけでいいから、くちづけをしてほしい」
彼は一瞬絶句して、目を見開いたままアーチャーを見て。
それから、手を伸ばしてきた。白い手が頬に触れるのをアーチャーは感じる。ぞっとするような他人の体温。冷ややかなアーチャーのそれとは全く違う、火の、炎のような彼の体温。それが伝染ってきそうな錯覚。
それを感じながら待つ。彼の顔が接近してくるのを。そして覚える。死の感触を。
くちづけによって与えられる、擬似的な死の感触を。アーチャーは待って、そしてゆっくりと味わって、舌に絡めて飲み込んだのだった。


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