二月十四日、朝。
「それじゃ行ってくるわ。……っと」
制服姿の凛を玄関まで見送りに行ったアーチャーはその声に怪訝そうな顔をしてみせる。するとくるり振り向いた彼女はぽんと軽々しく、アーチャーの手の中に何やら四角い箱を投げ渡してきた。
「危ない危ない。前はイリヤに先を越されたからね。今年はそうはいかないんだから」
わたしが一番でしょう?
まさか深夜に呼びだされて押し付けられたりなんてしてないわよね、剣呑に凛は微笑む。一方訳がわからないアーチャーはしばらく考え、
「――――ああ」
そういうことか、と、手の中の箱を心なしか大事そうに持ち直した。
二月十四日。St. Valentine's day。
「心配せずとも君が一番だよ、凛。他の誰からも貰ってなどいないさ」
「そ? よかった」
にっこり、満足そうに笑って彼女はコートを翻す。それじゃあらためて。
「行ってくるわ。帰りは衛宮くんちに直行だから、あんたもその頃になったら合流しなさいね」
「……小僧と一緒に下校するのかね」
「やだ、ヤキモチ?」
あんた意外にかわいいところあるのね、知ってたけど。
矛盾する言葉をさらっと吐いて、それじゃあ、と凛はドアを開けて出て行った。しんと静まり返る洋館、アーチャーは手の中の箱を見つめる。
それは品の良いブラウンにホワイトでストライプ模様が描かれた甘い愛の詰まった箱。
「……――――遠坂らしい」
くす、と微笑ってアーチャーは、さて今日は忙しくなるぞと腕まくりをした。


「ええ! どうしてそこで断わらないの、アーチャー!」
夕方、衛宮家。例年通りチョコレートケーキ、トリュフ、ブラウニー、抹茶チョコクランチなどなどを作っていた(もちろん事前に準備などはしていた)アーチャーは足元でふくれるイリヤに困り顔を浮かべてしまう。いつも通りイベント事が大好きな小さな姉、イリヤは車で夕方駆けつけやたらと豪華な箱を笑顔と共にアーチャーに差しだしたのだが、自分が一番でないと知ると途端に機嫌を損ねて駄々をこね始めたのだった。
「リンが一番だなんて許せない! アーチャーの一番はわたしのなのに!」
「いや、イリヤ」
ふくれるイリヤの気持ちもわからないでもない、だが断わることなど出来やしないだろう?
それを素直に伝えればますますイリヤがむすくれるのがわかっていてアーチャーはどうしようもないスパイラルに嵌っていってしまう。そもそも渡す順番などアーチャーにとっては些細な問題で、自分などのことを気にしてくれるだけで嬉しいのに、と言えばきっと小さな姉はますます怒ることはアーチャーからしても容易に想像出来た。というか、それくらいの学習はしていた。
「ずるいずるい! リンはアーチャーと一緒に住んでるからそんなこと出来るんだわ! ……いいわアーチャー、これからわたしと暮らしましょう。幸いお部屋はいっぱいあるし、選び放題よ? リンのところに住んでるときみたいにあくせく家事なんてしなくて住むし……」
ああ、でも、アーチャーは家事が好きだったわね。
それを取り上げちゃ可哀相、イリヤは言うが、まあ、大抵正解だ。そんな上げ膳据え膳状態ではアーチャーとて居場所がなくて逆に困る。何というか、むず痒くなってしまうのが目に見えている。
「台所で何騒いでるんだ……って、イリヤ」
「シロウ!」
おかえりなさい!言ってイリヤはアーチャーから離れて士郎に飛びつく。それが何だか面白くなくて、じっとりと士郎を見やってしまうアーチャーにいわゆるシスコンの自覚はなかった。
「ねえ聞いてよ、リンてばひどいの。アーチャーのね、一番をね、盗ったのよ!」
「は? 一番?」
なんだそれ、士郎は意味不明だといった顔をしている、まあ当然だろう。帰ってきていきなりでは意味もわからない。
そんな士郎にイリヤは切々とリンがひどい、ああだこうだと訴えて。
「……そうか、今日はバレンタインだったな」
「って、ええ? 気付いてなかったの、シロウ!」
「だって、誰からもそんなこと言われてもないし、貰ってもないしな」
きゅぴん!
イリヤの目が光る。
「シロウ! これ、あげる!」
ぎゅむっと、どこからともなく取りだした、おそらくはアーチャーに渡したものと同じであろう豪華な箱を士郎に押し付けイリヤは勝ち誇った笑みを浮かべる。その様はまるで魔法だ。
「お、おお?」
勢いそれを受け取った士郎の周りをいちばーん、シロウのいちばーん!とくるくる回るイリヤにますます面白くなくなるアーチャー。
……自覚はなくとも立派なシスコンである。
「なあに、騒がしいわね……ってイリヤ! 予想通りに来てたわね」
すると遅れて凛がやってくる。それにふふんと勝ち誇った笑みを続け、イリヤが宣言する。
「遅かったわねリン! シロウの一番はわたしが貰ったわよ!」
「は? ……ああ、そう」
淡白な返答。
イリヤはきょとんとして、すぐにむっとした顔になる。何なの、面白くない!そう言いたげに。
「だって、わたしアーチャーの一番貰ったもの。勝ち負けで言えば引き分けよ?」
「何それずるい! わたしが勝ちじゃなきゃいや! リンずるい! ねえ、やっぱりアーチャーわたしのところに来る気、」
「何それ。……その話、詳しく聞かせてもらいましょうか? アーチャー」
何だかもう何もかも面倒臭くなってしまって、アーチャーは言った。ばっさりと。


「いいから君たちもう、全員ここから出ていってくれ」


「ははは! そりゃいいな、傑作だ。オレもその場にいたかったぜ」
「その場合、君も強制的に退去させられたわけだがかまわんのかね?」
そりゃ困る、青い髪の男ランサーはトリュフを一個詰まんで口の中に放り込む。そうしてもごもごとしながら話しだした。
「面白いもんは見ていてえが、おまえの傍を離れるのはかなわねえ。べったりってわけでもねえが、それなりには傍にいさせてくれよ」
「……それでは、程々に頼む」
自分で言ったのだからな。
コーヒーを飲みながらぼそりと言ったアーチャーに、また傑作だという風にランサーが笑う。げらげらと。
それにアーチャーは眉間に皺を寄せて、
「食べ物を口に入れたまま騒ぐものではない。それに、あまり騒がしくするなら今からでも私の傍を離れてもらうが」
「ああ、ああ、かなわねえ。困るからよ、許してくれ」
そう言ってもぐもぐもぐ。
ランサーはトリュフを完食して、ごっくんと飲み下してからにっかりと笑ってみせた。
「これでいいか?」
「ああ。……ちょっと待て。口端に食べかすがついているぞ……まったく君は……」
言いながらポケットからハンカチを取りだして丁寧にランサーの口元を拭ってやるアーチャーに“過保護である”との自意識はない。で、ランサーも「んー」などと言いながら身を乗りだしているのだから厄介なものだ。
こんなところをシスター・カレンに見つかれば本当に厄介なことになる。幸せそうな人間を見ると皮を剥いでみたくなるのが彼女だから。バレンタインにふたりそろって因幡の白兎だなんて笑い話にもならない。
「よし、とれたぞ。……ん、何だね」
顔が近いぞ?などと今さら言いだすアーチャーに鈍いなおまえ、と呆れたようにランサー。迫っておきながらこの言い草である。
けれどアーチャーは離れようとしない、何故なら諦めが混じっているからだ。……混じっているというのなら主成分が存在する、それは一体何か?わからない。
アーチャー自身もわからない感情が大幅を占めていて、答えろと言われても困ることうけあいだった。
「ちょっと、ランサー。あなた、わたしの弟を独占しすぎじゃないかしら。それに近いのよ。距離が」
そこに現れたのはイリヤ。それがきっかけになったようにアーチャーは距離を離す。それくらいの良識はある。
だがランサーは面白くなかったらしく、斜に構えた笑い方でイリヤに語りかけるのだった。
「おいおいオネエサマ、ちょっと無粋じゃねえか? 恋人たちの語らいに横から割り込むたあ、レディのすることじゃねえぜ?」
「誰が誰と恋人ですって? ちょっと調子に乗りすぎよ、駄犬」
アーチャーの、いいえシロウの一番はわたしなんだから!
余程凛との一件が悔しかったらしく、イリヤはぷりぷりと――――見た目だけは可愛らしく――――どすをきかせてランサーをなじる。それにランサーは涼しい顔で、
「いいや、オネエサマ。確かに家族愛って点ではあんたが有効かもしれねえが、それ以外の愛となりゃ……な?」
「なんですって!?」
と、イリヤが言ったか言わないか。
その次の瞬間に、アーチャーは唇を奪われていた。
「――――っ!? 、っ、……!」
唇を奪われては詠唱も叶わず、頭の中だけをぐるぐると自作のポエム(と、凛は称する)が駆け巡る。突き飛ばせばいいのに出来ない。それほど混乱しているということだ。
それはイリヤも同じだったらしく、
「なっ、なっ、なっ、」
と、以後「な」を続けて五回も言った挙げ句に、


「――――来なさい! バーサーカー!!」


天を突く鉛色の巨体を、楽しい楽しいバレンタイン・パーティーの場に召喚したのだった。


結果。
“次の年のバレンタインにはみんな足並みをそろえて”
“抜け駆けは絶対なし、特に青い駄犬”――――というスローガンが衛宮家には掲げられるようになったのだった。南無。



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