ぞっとした。

ぱん、と張られた頬が小気味のいい音を立てて、じんわりと痛みが染み渡る。同時に感じた鉄の味に口の中をもごもごと探ってみたが、どうやら少し切れただけで済んだようだ。
「―――――」
唾液混じりのそれを舌で指先に伸ばし、しばらく眺めた後で無造作に舐め取った。
「貴様、何を」
しているのだと続けて言いたげな顔をしているからさあ、と答えてなんとはなしに指先を齧る。齧りながら不明瞭な発音で答えてみた。
「今、何をしてるのかはわからない。だけど、さっきしたのは、キスだ」
「…………ッ!」
激昂。
月明かりの下で白銀の髪が輝き、鋼色の瞳にも物騒な光が灯る。纏っているのは飾り気などない黒の上下だというのに、まるであの赤い聖骸布のように鮮烈な色彩が目を打った。
あ、
まずい、と思った途端に体が動いていた。振り下ろされた腕を顔の前にかざした腕で受け止める。ッ、と息を詰め衝撃になんとか耐えた。だがそれにかまわず上からぐぐ、ぐ、と押してくる腕はぎりぎりと激情に満ちていた。
「アー、チャー」
名前を呼べばさらに力が強くなる。かざした腕の隙間から見たその顔は憤怒に満ちているとも取れた、が、こちらからしてみればひどく、そそる。
眉間に強く刻まれた皺。引き結ばれた唇、歪んだ目元。おそらく怒りのためかうっすらとそこには朱が刷かれていたけれど、故意に取り違えようとすればそれは。
それ、は。
「!」
抜けだす要領で腕から逃れ、しかし距離は取らない。
いつでも触れられる場所に立ちながら腕を下げた姿を見る。やけに唇が乾いて、べろりと出した舌で上唇と下唇の両方を舐めた。それにひくつく眉を見て、今度乾いたのは喉だった。
まるで慄くような様を見せるじゃないか。怖がっているような。恐れているような。
「……アーチャー」
掠れた声で名前を呼ぶと、体の両脇にぶら下がった褐色の手に指を伸ばした。そこはさすがサーヴァント。すぐに反応して手を引こうとするが、その動きはぎくしゃくとしていて上手く逃れることはできないようだった。
ただ、中に何かを抱えて戸惑っているのが自分にでも見て取れる。鈍いとよく言われる自分に悟られてしまうのだから、余程のことだ。
「……ッ、」
まずは人差し指の先端。
目を閉じて軽くくちづけると、今度は隣の指に移る。中指、薬指、小指。そしててのひら。大きな手だったが弓を引くせいか指先は一本一本整っていて、優しく触れているとなんだか不安定な気持ちになる。
「や、め、」
親指の腹を下から上へ舐めていると、頭上からやはり不安定な声が降ってきた。や。め。全てを聞かずとも何と言いたいのかわかる単語だったが、あえてわからないという様子を装ってまた人差し指の関節にくちづける。
「……やめ、士郎……っ、」
ぞっとした。
思わず指から唇を離して顔を上げれば、月光に照らされた姿が目に飛び込んできた。
眉間の皺。寄った眉。何か言いたげな唇に細まった鋼色の瞳。
言葉なくその姿を見つめてどれくらい経ったのか。口の中で何事かをつぶやいて、目を閉じると彼は、
「衛宮、士郎……!」
押し殺したような叫びと共に視界に星。今度強襲したのは拳だった。回る星を振り払いアーチャー、と名前を呼ぼうとしたが遅く、霊体となって逃げられてしまった。

「情熱的なのもいいけれど、シロウ。あまり初心な相手に意地悪なことをするのはどうかと思うわ」
鈴の鳴るような声に振り向けば、そこには雪の妖精のような少女がいたずらっぽい顔をして立っていた。イリヤスフィール。
アインツベルンの当主であったが、あくまで今の彼女は年相応の少女であった。
「イリヤ」
「いつから見てたなんて聞かないでね。わたしはシロウもアーチャーも大事なんだから。二人共が悲しんだりするのなんて、嫌なのよ」
月光に照らされた長い髪がさらさらと細い指の間を滑っていく。
「ねえシロウ?」
闇の中で輝く赤い瞳。
「こんな話を知っている? ―――――キスはね、する場所によって違う意味を持つのよ」
「え?」
「手の上は尊敬のキス。額の上なら友情のキス。頬の上は厚意のキス。唇の上はもちろん愛情のキスよ。……そうね、あとはてのひらの上なら懇願のキスになるの」
「…………」
「シロウ」
雪の妖精が愛らしく微笑む。土蔵の傍、夜になれば冷える季節だろうに平気な顔で笑っている。
「あなたは、アーチャーに何を願うの?」
白銀色の髪。
鋼色の瞳。
褐色の肌。
赤い聖骸布。
根元を同じにしながら、まったく違う道を行った自分自身。

「……ねえ、シロウ」
「イリヤ、俺はさ」
急かすように繰り返された言葉を遮るようにつぶやく。口を噤んだ小さな姉に、もしくは誰でもない誰かに言うかのように小さく、だがはっきりと。
「俺は―――――」
どうか。
自分は■■のものだからなんてあきらめずに、彼にはしあわせになってほしいのだと。
言いたかった言葉は出てこず、少女の視線を感じつつ夜空にある奇妙に赤い満月を見つめた。



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