マスターが私を呼ばわる声がする。
仕方がないので私は彼の部屋の前まで向かった。途中で誰とすれ違うこともない。
祖父殿は隠居し、妹とやらは別の家に居候中。ならばこの屋敷には私と彼のふたりきりだ。
「アーチャー、早くしろよ! アーチャー!」
……全く、マスターとサーヴァントという間柄であればわざわざ大声など張り上げなくとも念話で事足りるのに。
いつまで経っても彼はそういったことに慣れないようだ。
「…………」
私は無言で声が発せられるドアの前に立って、す、と手を上げた。
その甲を使って軽くノック。
一、二度、三度。コン、ココン、コン。
「――――、」
すると、マスターが中から飛び出してきた。
少し面食らって私はその顔を見つめた。下にあるマスターの複雑さに満ちた顔を。
「……遅いんだよ、いつまで僕を待たせる気だ!」
「あ。いや、済まなかった、」
マスターが私を呼ばわってから到着までほんの数秒しか経過していないが。
まあ、その程度の瑣末などはどうでもいい。
だから素直に詫びれば彼は「、」と一呼吸置いてから。
「……減った」
「は?」
「……だから、腹が減ったって言ったんだよっ! 何度も言わせるなよ、まったく!」
「ええと」
それは、もしかして?
「何かを作れと? マスター」
「その他に何があるっていうんだよ!」
「あ、うん」
ないけれど。
一体どうして、この少年は顔を赤くしているのだろう?
マスターの謎の挙動に内心首を傾げつつ、「それでは」と一礼し背を向けた。
「パンケーキでも作ろうか。この中途半端な時間にしっかりしたものを作ってしまっては夕食に響く。少し待って――――」
いてくれれば部屋まで持っていく、と言い残し背を向けようとしたところ、
「…………?」
「行く」
「え?」
「僕も一緒に食堂に行くって言ってるんだよ! 何度も言わせるなってさっきも言っただろ!」
「でも、待たせはしないぞ? すぐに作って持って、き……」
「行くったら行くんだよっ!!」
「……了解した」
本当に、不可思議なマスターだ。


さて、パンケーキは出来上がった。五枚ほどを薄く焼き上げて重ね、バターを乗せると蜂蜜を器に入れて添える。
甘さは好みで調節出来るようにだ。
「出来上がったぞ、マスター」
(マスターが用意した)エプロンを脱ぎながら食堂へと声をかける、蝋燭だけの灯りでゆらゆらと沈む暗さのそこへと。
ふわりと鼻先を甘い香りがくすぐる。うん、我ながら及第点だと思う。
だというのにマスターは何が不満なのか、眉間に皺を寄せていた。
「……マスター? 何か不満でも……」
「遅い」
「……そんなに空腹だったのかな?」
「そうじゃなくて! 僕が用意しろって言ったらおまえはさっさと用意して僕に提供しないと駄目なんだ! それを何度も何度も……」
「悪かった。だからあまり怒鳴らないでくれマスター。余計に腹が減るぞ?」
そこでくい、と手にしたパンケーキの乗ったトレイを掲げてみせると、ぐ、とマスターは言葉を呑んだ。
「食べるだろう?」
「……食べる」


それはもう、よく食べた。
ぱくぱくと、もぐもぐと。
欠食児童のようにあっという間に彼はパンケーキを平らげた。
そして手を合わせることなく、「ごちそうさま」と言って下を向いた。下を向いた、そのままで。
「……まあ、なかなかの、味だったんじゃないの?」
「うん。それならば私も作った甲斐があった」
素直にそう言い返せば、耳までぼっと赤くなる。
それから何か言おうとしていたが、結局「――――〜っ」と言葉を呑んで押し黙ってしまった。
まったく、不可思議なマスターである。
けれど、私は彼がそう嫌いではなかった。



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