「ランサー!」
ばっ、と。
アーチャーは病室のドアを開けた。
するとそこには案外元気そうなランサーの姿。
それを見てアーチャーは固まって、どくんどくんと跳ね上がっていた鼓動が収まっていくのを感じながら、泣きたくなるのを必死で堪えた。
そして言う。なるべく何でもないように聞こえるように。
「し……心配したのだぞ! 怪我などしたと凛が言うから……どんな重傷かと思えばまったくその程度か! これだから、人に迷惑をかけることしか出来ない男は……」
「あの」
「は?」
「あんた」
病院着に身を包んだ青い髪の男は、ランサーは言った。アーチャーに向かって、“あんた”と。
一番に親しかったはずのアーチャーに向かって、まるで他人相手のように。
「あんた、誰なんだ」
「――――え?」
手にした。
花束が、ぱさりとリノリウムの床に落ちた。


記憶喪失なんですって。
怪我は、大したことないんですけど。
頭を、打ったらしくて――――。


看護士たちがひそひそとささやく。
ナースステーションでのそれを椅子に座って聞き流しながら、床に落として汚れた花束を眺めていた。小さな花がたくさん集まったそれ。中心になるのは青紫の花で、彼のためにそれは選んだはずで。
なのに。
なのに彼は、全部を忘れていた。
“あんた、誰なんだ”
「……っ」
胸がつきん、と痛む。結局口にすることは出来なかった。
“君と私は、恋人同士なんだ”
(あたまが)
きっと。
(おかしいと、おもわれる)
だから。
それにそんな場合ではない。記憶を失ったランサーにはもっと思い出さなければいけないことがたくさんある。アーチャーのことなど二の次だ。いや、三、四、五、その次の次の次でも。
もっと先に思い出さなければいけないことは、たくさんあるはず。
身を引こう。ずっととは言わない。少しだけでも、身を引こう。ランサーが少しずつでも回復していく間だけでも。傍にいればランサーが混乱するかもしれない。私は君の恋人なのだと、下手をすれば口走ってしまうような自分が傍にいては。
身を引こう。このまま帰ろう。花束はゴミ箱にでも捨てていこう。そんなに高くはなかったから。ランサーがバイトしていた花屋で買ったものだから。
店主がアーチャーの顔を覚えていて、「お代はまけておくよ」と笑顔で言ってくれたから。
ああ、その時はこんなことになるなんて思っていなかったのに。
「…………っ」
ぶるぶるぶる、と頭を振る。それからぱん!と自分の頬を自分の両手で叩いた。痛い。じんじんとする。でも、それでいい。
胸の痛みを、少しでも忘れることが出来るから。
……さて、これからどこへ行こうか――――。
「おい、あんた」
ランサーと一緒に住んでいた家にはしばらく帰りたくないな、とアーチャーが思いながら椅子から立ち上がろうとした時、聞き慣れた声がアーチャーを呼んだ。
思わずびくりとしてしまって後ろを向くと、手首に包帯を巻いたランサーの姿。本当に傷はそこだけらしくて、あと、深刻なのは打った頭だけだと医者が言っていた。
傷はかすり傷なんですよ。それよりも、強打したらしい頭の方が――――。
それよりもあなた、彼とどのようなご関係で?
聞かれた言葉に震えて。
しばらく黙ってから「……家族です」と答えていた。「恋人です」なんて頭のおかしいこと、とても言えやしなかった。
「……傷に障るよ。早く病室に帰りたまえ」
「あんたが」
そこで彼は少し黙って、口を開く。
「あんたが、辛そうな顔してたから」
ほっとけなくてよ。
それで?
アーチャーの胸がまた、つきん、と痛む。それで、追いかけてきて“くれた”と?
いらない。そんなのいらない。そんなのは余計に辛くなるだけだから。いらないから、追いかけてきてくれなくたっていいから。
早く、私の目の前からいなくなってくれ。
「早く病室に戻れ!」
つい、叫んでいた。しん、とした空間に自分の叫びの反響がうるさい。ランサーは驚いた顔をして、申し訳程度に巻かれた包帯に負けないほど白い手を伸ばしてきた。
「……戻れねえよ」
身が竦む。首筋に触れてくる手。なんで。なんで戻れないなんて。なんで。早く戻ってほしい。いなくなってほしい。私を知らない君なんか。知らないだろう?君は知らないんだろう?君に対する私の恋情を。想いを。だったら今すぐ病室に引き返すべきだ。でないと私は。
でないと私は、全部喋ってしまう。
彼は私を見つめる。泣いてしまいそうだった。彼の手は温かかった。記憶を失う前と何ら変わりのない、それは温度だった。



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