「アーチャー、本を読んで」
「……イリヤ」
「眠れないの」
大きな魔導書を片手に目を擦ってイリヤは言う。永遠の冬の国に建つこの城は冷える。昼間も冷えるけれど、夜になればもっと冷えるのだ。
アーチャーの体はもちろん全然温かくなんてない。むしろ冷たいくらいで、イリヤが体温を持っていかれるくらいだ。けれどそれでも一緒にいたくて、イリヤはアーチャーの寝室のドアを叩いた。
最初は、アーチャーは「私に寝室など不要だ」と言った。それをくどくどくどくどと言い聞かせて、ようやくこの部屋を与えられるようになったことをこっそりイリヤは誇っている。
だって夜は眠るべきだ。みんな等しく生き物は眠る。獣も、鳥も、人も。
そしてサーヴァントだってきっと寝るべきなのだ。
「本を読んで」
きぃ、と開いたドアの隙間からぱたぱたとスリッパを鳴らし部屋の中に入り込んで、中途半端にめくれ上がった掛け布団の中に滑り込む。と、案の定それはひんやりと冷たくて、まるで凍えるようだとイリヤは思った。
「うう」
思わずイリヤが唸るとアーチャーは傍までやってきてカーディガンを肩にかけてくれる。ピンク色のそれはイリヤのお気に入りで、アーチャーが手ずから編んでくれたものなのだった。
(編み物が得意なサーヴァントなんて)
聞いたことないわ、とイリヤは思う。だけど変だとは思わない。むしろ他のマスターに誇れる実績だと思う。それをいつかのティータイムにアーチャーに語って聞かせたら、彼は眉間に皺を刻み「……それは止めてくれ、マスター」と苦々しげにつぶやいたのだった。懲りずにアーチャーはイリヤを「マスター」と呼んだので、イリヤはきついおしおきをしてやったのだが。
「アーチャー、早くベッドの中に入って」
「いや、しかし君と同衾というのは」
「わたしのことがきらいなの?」
まただ。また、イリヤは奥の手を繰り出した。もういい加減アーチャーもこの手に慣れたっていいんじゃないかと思うのだが、いつまで経っても慣れやしない。いつでもいつでもいつだって、アーチャーはイリヤがその言葉を口にすれば焦って、慌ててみせるのだ。
「……そういう、わけでは」
「じゃあどういうわけなの」
「…………」
「だんまりはなしよ」
ぱしぱし、とイリヤはベッドをてのひらで叩く。年齢にそぐわない小さな手で。それを見て、少し我が事ながら胸がつきんとした。
早く。だから早く、アーチャーに治して、癒してもらわなければ。
「一緒に寝ましょうアーチャー。そしてあなたはわたしに本を読んで。これは命令よ」
もう。こうしないと言うことも聞いてくれないの?イリヤは自分がわがままを言っているとわかっていながら、心中で思う。わかっている。イリヤスフィール・フォン・アインツベルンはわがままだ。わがままで、子供で、どうしようもなく子供で。
本当は子供じゃないんだけど、それでもアーチャーの前では子供ぶって。
だってそうすればアーチャーは言うことを聞いてくれる。
「…………」
しばらくアーチャーは黙って、そしてベッドの隙間に滑り込んできてくれた。やった!イリヤはやっと手に入れた戦利品に心の中で快哉を上げつつふふ、と笑う。
そうして自分の体温で温かくなってきた掛け布団の中でスリッパを脱ぎ捨てたせいで裸足になった足をぱたぱたと揺らした。
「はい。読んで。大きな声で、はっきりとね。そうでないとわたしに届かないわ。それじゃ意味がないの。そうじゃないと、わたしは眠くなんてなれないわ」
「……大きな声など傍で出されたら、余計に眠れなくなるのでは?」
「口答えは許さないわよ」
かさついた唇に指先を当てて黙らせると、イリヤはにっこりと相好を崩した。さあ、パジャマパーティーの始まりだ。
「まったく、せめて童話などの可愛らしい本を持ってくればいいものの」
「あら? だってアーチャー、わたしもういい年の大人よ? 立派なレディなんだから、童話なんて子供っぽい本は読まないことにしたの」
「なるほど、この前に読んだ“みどりのゆび”が最後というわけか……」
「あっ、そうだ。庭園の花はいつ咲くの? まだ? 何かお手伝いが必要ならしてあげるわよ。そうね、錬金術で……」
「いい。いいから、イリヤ」
やめてくださいおねがいします、
そんな風にアーチャーが言うから、イリヤはきょとんとして、それから大声で笑ってしまった。レディにしては、はしたない。
もちろん冗談だ。イリヤだってせっかくアーチャーが育ててくれている花を得体の知れないバイオ植物なんかにしたくはないのだから。


「…………――――、…………――――」
アーチャーの低い声が寝室に朗々と流れる。まるで古びたレコードみたい、とその響きを楽しんでイリヤは足をぱたぱたと揺らす。
味があるというのか。イリヤに言わせればアーチャーの声はとても素敵だ。セラなんかは「無粋です」と何だかわけのわからないいちゃもんをつけるけど、その時は実力で黙っていただいている。
セラもリズも大事だけど、アーチャーを馬鹿にするのは許さない。
ちょうどアーチャーが読んでいる箇所は、魔術薬を混ぜ合わせる程度についての比率についてだった。
うんうんと頷きながら聞いて、結構ためになるものだなあとぼろぼろになった魔導書の表紙を見てイリヤは思う。赤い表紙。アーチャーの概念武装と一緒。
アーチャーはぼろぼろになんてさせやしないけれど。ナイトのように思ってイリヤはまた、これもためになる、とあれとこれの配合は……と比率を頭に叩き込む。
一切合財取り逃したくないのだ。アーチャーが語ってくれること。
それにしたって、
「ねえアーチャー」
「何だね」
「年頃の女の子が夜に寝室に忍び込んできてるっていうのに、あなた何の反応もしないの?」
つまらないの、と言ったイリヤはアーチャーがぶうっ、と何かを噴きだす音を聞いた。それがあまりにもレアな表情だったからきょとんと瞠目してしまい、ついからかうのを忘れてしまった。
「きっ、きみはっ、いきなりなんてことをいうのだねっ」
あ、動揺してる。それもすごく。イリヤは思って、ようやっと自分の中から湧き出してきた笑いの種に身を任せる。
――――というか、今の表情は、ない!
「あ、あははっ、あははははっ! アーチャーったら今の顔、おっかしいのーっ!」
「イリヤッ!」
怒ってくれる声が好きだ。マスターとサーヴァントの距離を縮めてくれて、ふたりの間をもっと深く繋いでくれるような気がするから。
涙を浮かべて笑い、イリヤは思う。あなたが大好きよアーチャー。
だから今夜だけじゃなくて、ずっともっと傍にいてね。



back.