舞弥と共に武器の確認、整理を終えた切嗣が部屋に戻ると、にこにこと微笑んでいるアイリスフィールとどこか居心地の悪そうなアーチャーがいた。
アーチャーがアイリスフィールといて、居心地が悪そうなのはいつものことである。けれどあまりにもそれが強そうなので切嗣は怪訝に思って、彼らに声をかけようと――――、
「ア……」
「……ケ、」
「ケ?」
「……ケリィ」
!?
ぎしり、切嗣の体が強張る。今、アーチャーは何と言った?
聞き違いでなければ確かに言った。“ケリィ”と。アイリスフィールも呼んだことのない、幼い頃の彼の愛称を。
固まってしまった切嗣にアイリスフィールは依然にこにこと笑って、両手の指を絡め合わせて言う。
「あなたの昔話をね、聞いた時に教えてもらったでしょう? それをアーチャーに教えたの。そしてお願いしたのよ。切嗣、あなたを愛称で呼んであげてって」
「いや……アイリ、でも……」
「あら、嫌だった?」
ぶんぶんぶんぶん。
首を勢いよく左右に振る切嗣に「よかったぁ!」と無邪気に快哉を上げて、アイリスフィールは破顔する。その傍らでアーチャーは未だ居心地が悪そうだ。まあ、当然と言えただろう。これまで「マスター」呼びだったのが「切嗣」を飛び越して突然愛称の「ケリィ」呼びである。彼が戸惑うのも当然と言えた。
「アーチャー……それにしたってどうして」
「いや、その、アイリスフィール……が」
そこから切々と訴えるかのようなアーチャーの説明が始まった。だがあまりにも長かったので要点をまとめれば“彼女に強要された”その一点である。
散々の搦め手を使ったアイリスフィールの交渉手段。それにアーチャーはとうとう陥落させられた。そして切嗣のことを「ケリィ」と呼ばざるを得ない状況まで、追い込まれたのだった。
「ふふ、それにしても」
わたしも呼んだことがないのに、何だか変ね。
言われて切嗣は気付く。そういえば妻のアイリスフィールにも、愛人の舞弥にも、「ケリィ」だなんて愛称で呼ばれたことはなかった。そもそも舞弥にはそんな愛称で呼ばれていたことさえ言ったことはなかったし。
アイリスフィールにだけだ。小さな頃、シャーレイという名の明るい少女に「ケリィ」と溌剌とした独特のイントネーションと声で呼ばれていたと伝えたのは。
「それにしてもアーチャー」
君、よく言えたね。
労わるように切嗣がアーチャーに言えばアーチャーは、ほのかに顔を赤くして黙ったまま目線を逸らす。相当恥ずかしかったらしい。まあ当然である。
「マスター」から一足飛びで「ケリィ」では。
頑張ったのよ、とアイリスフィールは笑う。まるで、昔のシャーレイを思い起こさせる溌剌さで。淑女、レディとしての気品を持つ彼女であったが、同時に少女らしい元気さも持ち合わせていた。
淑女と少女。矛盾していると思われがちだが、それを自らの内に同居させることは出来るのだ。努力しようとしなくとも。
天然でそれを出来るのがアイリスフィール・フォン・アインツベルンだった。
ちょっと己の妻のそんなところが恐ろしいなと思う衛宮切嗣であった。
「マ……マスター。も……もういいだろう?」
「ええ? もうやめちゃうの、アーチャー?」
「さすがに……恥ずかしすぎて、これ以上は……」
「だって、切嗣は喜んでいたわよ? あなた、嬉しくない?」
「……嬉しくなくは、ないのだが」
「……アーチャー」
その言葉に驚いて切嗣は思考のために伏せていた顔を上げる。自分が喜んでいることを嬉しく感じる?アーチャーが?
俄かに信じられなくて視線で問えばぐっとアーチャーは言葉を呑んで、それからぽつり、と小さな声で言葉を漏らした。
「私とて、マスターが喜んで嬉しくない、……はずはないさ。ただ、それにそれ以上の恥ずかしさを感じてしまうだけで……」
なるほど。
アーチャーの思考はよくわかる。切嗣も幼い頃にシャーレイと話していて彼女が喜べば嬉しかったが、何故だかそれ以上の恥ずかしさを感じる時が時々あった。割と頻繁ではなかったからよかったものの、自分はおかしいのだろうかと本気で悩んだ時もあったものだ。
それはたぶん思春期というもので、きっとアーチャーにもそれは訪れている。
大柄な、切嗣よりも背が高くて体格もいいアーチャーにそれは何だか不釣合いでそれでいて似合っていて、アンバランスで微笑ましくなってしまう。
体ばかりが育ってしまった大柄な子供。それがきっと今のアーチャー。
「……く……くく」
「――――マスター?」
怪訝そうにアーチャーが言うから、切嗣の笑いの線はた易く決壊してしまった。腹を抱えて笑う切嗣に、アイリスフィールでさえ目を丸くして、あなた?と声をかけてきた。
「あ、ああ、違うんだよ、何でもないんだアイリ、アーチャー」
「いや、けれど……それは何でもないという態度では……」
「本当に何でもないんだ。僕の勝手な妄想さ。だから、ね」
そうやって無理矢理アーチャーを納得させて、(それでもアーチャーは“納得が行かない”という顔をしていたが)切嗣は笑いを何とか抑える。それでも笑いの端々はこぼれてしまって、切嗣の肩をくつくつと揺らした。
「それにしても、アーチャーは頑張ったよ。よく、頑張った」
「……もう、それはよしてくれ」
それを話題にするのはよしてくれ、と懇願するようにアーチャーが言うから、またおかしくなってしまって切嗣は噴きだす。恥ずかしかったことだろう。相当、恥ずかしかったことだろう。
それでもやってくれたのだ。やってのけてくれたのだ。「マスター」から一足飛びで、「ケリィ」と。
おそらくはアイリスフィールが「あのひとが喜ぶから」と言ってくれたから。
ああ、君はなんていい妻なんだアイリ。そしてアーチャー、君もなんていい息子なんだ。
ふたりとも僕の大事な家族だよ。
戦いの中での癒しの存在であるふたりを見つめ、切嗣は微笑んだ。この戦争を始めると聞かされた時は、こんな幸せな時間が自分に用意されているとは思ってはいなかった。
ただただ戦いに明け暮れるあの頃の、ナタリアと暮らした、けれど懐かしいあの頃のような戦場の日々が戻ってくるものだと思っていたのに。
それなのに、それなのに。
「アイリ、アーチャー」
僕は幸せだよ。
心の中でそうつぶやいて、切嗣はふたりに向かってもう一度微笑んだ。



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