「アーチャー……いや、“エミヤ”。おまえにとって、あいつは死せる時に呪いを遺していった憎い男だろう?」
ロザリオを胸に下げた男がつぶやく。その顔には薄暗い笑みが浮かんでいた。
赤い奇妙な服を纏った男は顔を床に向けたまま、己の爪先を見つめたまま、そうだな、と、静かな口調でそう返した。
「けれど、大切にも思っているよ。だってオレを助けてくれた人なんだから。……たったひとりの、オレの、爺さん」
赤い服を着た男は顔を上げる。そしてステンドグラスに彩られた天井を仰いだ。褐色の手を伸ばす。そうして、何かを掴むように動作して、鋼色の目を細めた。
そこには何もない。それでも男は何かを掴んだようだった。だって、何もなかった唇が弧を描いたのだから。
「憎みながら愛している。まるで三文劇だな。懸想しているようだぞエミヤ。……と、呼んでいると私も奇妙な気分になる。何しろ奴も“衛宮切嗣”だ。おまえと同じ“エミヤ”なのだからな。おまえを呼びながら、奴を呼んでいるような気分になる」
「やめてくれ。……爺さんは、オレのような男じゃない」
全然違う種類のひとだ、とステンドグラスからロザリオを下げた男に視線を投げて、吐き捨てるように赤い服の男は言った。睨み付けるような、射るような視線だった。
くつくつとロザリオを下げた男は笑う。低い声で。地の底から響くような声で。それが、埃も舞わない清冽な教会内の空気を少しだけ揺らした。
「なあ、知っているんだろうエミヤ。かつて衛宮士郎であったおまえなら」
「何を?」
「この教会の地下には、あの事件で死にきれなかった子供たちがいる。そして生け贄となり私のサーヴァントに力を与え続けてくれている。……衛宮切嗣の起こしてくれた事件によって生まれた子供たちだ。衛宮切嗣が聖杯を破壊しなければ、あの子供たちは生まれなかった」
「……それでも、爺さんが破壊しなければやがて聖杯は自壊して……」
「同じ結果になっていた、と? やめろ、奴をかばうのは。思っていただろう? 汚らわしいと。忌むべき行為だと。それもこれも全てあの男のせいだ。あの男が事件を起こさねばあの子供たちは永遠の生と死の間で暮らし続けることもなかった。ただ平凡に生きて、そのまま死んでいけたはずの子供たちなのだよ」
「黙れ、神父。おまえの高説は聞き飽きた」
がたん、と椅子を鳴らして赤い服の男は立ち上がる。それに声を上げて笑い、「おやおや不評を買ったかな、」と全く悪びれた様子もなくロザリオを下げた男はつかつかとパイプオルガンの方へ歩み寄る赤い服を着た男の軌跡を何をするでもなく眺めていた。
やがて赤い服を着た男はオルガンの前へ辿りつく。――――人間オルガン 唇がそっとそう意味もないグロテスクな冗談を――――冗談を?つぶやいて、褐色の節くれ立った指が白い鍵盤にそっと触れた。
途端ぽん、と待っていたかのように音が鳴る。ぽろん、ぽろん、ぽろん……褐色の指は誰も聞いたことがないメロディを奏でて、さながら泣く子をなだめるかのように白と黒の鍵盤を撫でた。
演奏には程遠いそれを、ロザリオを下げた男は愉悦に満ちた表情で聞く。「衛宮切嗣は、」ロザリオを下げた男は唐突につぶやく。
「衛宮切嗣は、おまえに戦い方だけでなくそんなことまで教えたか」
「いいや。これは私の独学だよ。……と言っても、齧った程度だがね。曲など数えるほどしか知らない。難しい曲なんて弾けもしない。そうだな、猫が踏まれた歌くらいしか弾けないのではないかな」
「ふ、ふふ。それはそれは。猫も哀れなものだ」
その猫は死んだのかな、と不吉なことを言ってロザリオを下げた男はぽろんぽろんぽろん、と繰り返す単調なメロディーを聞く。何も楽しくなどないだろうに、その口元は常に吊り上っていた。
「さあ。私は知らない」
猫の生き死になど、と赤い服の男は言って、それよりとロザリオを下げた男へ視線をよこした。
男と男の視線が真っ向から合う。それをどちらもずらさずに、ぴったりと合わせたままで二人は喋る。平坦な声で。先程まで響いていたメロディーと同じ単調で仕方ない平坦な声で。
「爺さんのことを、おまえはどれだけ知っている?」
「さて。おまえよりは知っているのかな……と言ったらおまえは嫉妬するか、エミヤ」
「そんなファザコンに、オレは見えるのかな」
「少なくとも、私には充分に見えるが」
「嫌だな」
おまえにだけはそんな風に見られなくなんてないのに、とやはり平坦に赤い服の男は言って、再びぽろん、と一度だけ音階を鳴らす。そして完璧に鍵盤から指を外して、光のないロザリオを下げた男の瞳を睨むように見据えた。
「おまえだけには思われたくない。爺さんに狂うほど執着し続けたおまえと同類に思われるなんて、死んでも嫌だ」
「死んでいるだろう、おまえは」
「ものの例えさ」
赤い服の男は笑わない。その代わりのように、未だ笑いを浮かべていたロザリオを下げた男が、さらに笑った。身を折って笑う。哄笑する。声帯が破裂する。
いささか派手に、ロザリオを下げた男は教会内の空気を揺らした。ゆらゆら陽炎のように、空気の揺れが見えるならばきっとそれは見えただろう。けれど人間の目にそれは見えない。異形の身である者――――赤い服の男には、もしかして見えたかもしれないが。
「生きている間ずっと執着し続け、そして死んでからも衛宮切嗣に執着し続けたおまえ。おまえならば私の気持ちもわかるはずだ。語ろうではないか、衛宮切嗣という男について。必要ならばワインも開けよう。チーズもある。我が家にはごくつぶしがいてな、それが酒とつまみをよく好むのだ」
「まっぴらごめんだ、お断りだよ。おまえの見る勝手なあのひとの観点なんて聞きたくもない」
「己の理想が穢れるのが恐ろしいか? エミヤ」
「オレの中のあのひとは揺るがない」
愛しくてそして憎い人だ、と言い捨てて、赤い服の男は押し黙る。
自然とロザリオを下げた男も黙って、教会内は沈黙に染まる。どちらが先か。口を開くのは。勝負にもつれ込もうとした時、ふと第三者の声が教会内に響いた。
「おい、言峰。あの遊びにも飽いた、次のものを用意せよ……ぬ?」
現れたのは黒いライダースーツに身を包んだ豪奢な金髪の男。その男は宝石のように赤い瞳を眇め、赤い服の男を見つめている。
「フェイカーか。誰の許しを得てここにいる。……と言いたいところだが、おそらくこの状況では言峰の差し金だろうな。どうした言峰。これが次の余興か? 我は贋作ではなかなか満足出来んと、それを知っていての……」
「ギルガメッシュ、この男はおまえの遊び相手ではない。残念ながらな。私の話相手として招いたのだ……ああ、そう嫌そうな顔をするな。笑えてくる」
実際に笑い出したロザリオを下げた男に、「相も変わらず不愉快な男よ、」と金髪の男は言って嗤い、柱に寄りかかりゆっくりと両方の腕を組んだ。
驚くほど、その仕草は金髪の男に似合っていた。
「言峰に気にでも入られたか、フェイカー。そうだとすれば不運で不憫なことだ。我が言うのも何だが、この男は性質が悪いぞ」
「おいギルガメッシュ、私をそう育てたのはおまえだろう? おまえにそんなことを言われる筋合いはない」
「怒ったのか。おまえでも己を悪く言われて怒る心が残っていたとは、驚きだな言峰?」
くすくすと金髪の男が嗤う。けれど、と、残念ながら、と言ってロザリオを下げた男は首を振った。
「怒ってなどいない。ただ、事実を述べただけだ」
「……つまらぬ」
言葉の通り不機嫌になって、むっすりとした表情を浮かべてみせた金髪の男は今度は矛先を赤い服の男に向ける。赤い瞳でその体を嬲り、魂を嬲り、最後に瞳を嬲った。そうしてからおもむろに、
「フェイカー。おまえは我を退屈させないだろう? 何を話していた。包み隠さず全て我に話せ。……でないと、貴様の命はないぞ?」
「話すほどのことではないよ、英雄王。……愛しくも憎い、私の養父の話さ」
“オレ”という一人称をいつの間にか“私”に変えて赤い服の男はつぶやき、オルガンの傍からふいと離れ低い段差と化した階段を歩み始めた。一歩一歩確実に降りていき、長椅子の間を通り過ぎて、ロザリオを下げた男が座る椅子の前で止まる。
「それでは、神父。私はそろそろ凛の元へと戻る。あまり家を空けると彼女も心配するのでな」
「過保護なことだ。凛ももう、いい年頃だというのに」
「まだまだ彼女は子供さ。……それでは英雄王、良い夜を」
柱の脇を通り過ぎ、扉に手をかけて振り向くと赤い服の男は言った。口元に、ニヒルな類の笑みを刻んで。
「もうここに来ることもない。そしておまえに会うことも。永遠にさようならだ、言峰綺礼」
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