「――――!」
ぴくん、とアーチャーは顔を上げる。
深い深い眠りの中。
泥に浸された眠りの中、それを振り払うように体を起こす。
けれど染み込んだ泥はなかなか体から離れてくれなくて、完全に起き上がるまでには時間がかかった。
その間も呼ぶ声は続く。耳にではなく、脳に響く声。低い低い、暗い暗い。
深い深い、男の声だ。
「…………っん」
ずるり、と最後の泥を払って立ち上がる。意識は何とか覚醒した。
よろり。最初の一歩は少しよろける。近場の柱に捕まって転倒を堪えた。眠りすぎた故の弊害の眩暈か。それとも泥に浸されすぎたせいか。
判然とはしないが、とりあえずは声の主の下へと向かうことにした。
「やっと来たか。遅かったな、アーチャー」
礼拝堂まで向かえばそこには黒い背中。ステンドグラスから差し込むはずの光は、本日が曇天のせいでひどくぼやけたものだった。
「済ま、ないな。眠りの質が悪かったもので、」
「そうか。ならばもっと上質なものを提供しようか?」
「不要、だ。……っは、もう、しばらく、眠りは、結構だよ」
「おっと」
よろける。
ちかちかと目前に眩暈。
近くの長椅子に咄嗟に掴まって耐えるが、眩暈はしばらく引いていかなかった。
力の入らない手に無理矢理に力を入れて、は、は、と息を喘がせていると、
「…………、」
褐色の大きな手に、さらに大きな手が重ねられる。顔を上げればそこには男の顔。
陰気な顔だ、と思う間もなく、どくん、と鼓動が高鳴った。
「ぁあ……!」
触れ合った箇所から濃い魔力が注ぎ込まれ、眩暈が強くなる。どくん、どくん、どくん、どくん。
吐き気さえしそうな倒錯感に悶えながら、アーチャーはしばらく暴力的な魔力の奔流に酔い続けた。
くったりと長椅子に横たわるアーチャーを見て男は笑う。
「やはり貴様も反英雄でありながら泥には弱いか。サーヴァントである故に、仕方のないことなのか」
「……ん、ぅ、」
息は荒い。反対に、男の呼吸はそこにあるのかないのか判別し難いほど静かであった。
「もっと。もっと清らかな魔力であればおまえもよかったか?」
「……え……?」
ぼんやりした頭では男の言葉を理解出来ず、呆けた声を漏らしてしまう。その顎を捕らえて男は言った。能面のような顔に、出来損ないの笑みを貼り付けながら。
「例えば、光の御子のそれのような。あの輝かしい魔力であれば、おまえも喜び悶えてそれを受け入れるだろうよ」
「…………?」
光の御子。そう言われて、頭にぽっかりととある人物の顔が浮かぶ。
青い髪に白い肌。赤い瞳の、しなやかな筋肉でその身を覆った男だ。
ランサー。
そんなクラス名、だったと思う。
「理、解出来かねる。……何故、私が、彼を」
「自分のことは自分が一番よくわかっていない。おまえを見ているとそんな言葉を思い出す」
男は出来損ないの笑みを貼り付けたまま言葉を吐く。
鋭い刃物の切っ先のような、けれど傷口は鈍く、いつまでも鈍痛を運んでくるような性質の悪い言葉を。
「やはりおまえは自分自身を理解していないな、アーチャー。……それがまた、見ていて面白い」
顎にかけられた手を払おうとするが上手く行かない。泥のような魔力のせいでまだ体に力が入らないのだ。ねっとりと糸を引くようなその魔力は、アーチャーをがんじがらめにしたままで浸透していこうとするのだった。
「おまえは懸想している。あの光の御子にな。だが残念だ、おまえは堕ちた。私と同じ場所まで堕ちてきた。二度とあいつには触れられん。だから――――」
「意味が、わからない、」
ようようやっとで言葉を吐く。そうだ、意味不明だ。懸想?心底意味がわからない。
同じサーヴァントである以上、彼とは殺し殺される間柄でしかないはずなのに。
この男は何を血迷ってそんなことを言うのだろう。
じぐり、と胸の傷が痛む。
「――――ッ」
思わず呻いたアーチャーに、男は刹那笑いを消して。
「そら、その傷だ。その傷がおまえを縛り付ける。その傷がおまえをあの光の御子に縛り付けた。表層意識では理解していなくとも、おまえの深層心理はあの男、光の御子を求めてやまない」
「――――」
わからない。
わからない、わからない、わからない。
ぞっとするんだ、今すぐ止めてくれないかその声を。
有り得ないことを夢想してしまいそうになる、その不可解な声を。有り得ない。そうだ有り得ない。
必死に男の言葉を意思で打ち消す。その間にも泥の侵食は進む。
「諦めることだ。おまえは私から逃げられんし、助けも来ない。囚われの姫気取りなど止めろ。おまえは、」
私の餌だ。
男は笑う。貼り付いた笑みではなく今度こそ嬉しそうな、心底からの笑みで。
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