おまえ、独りか?
その耳障りのいい、独特の声を覚えている。


がちゃりと開錠する音を聞いて、私は顎を上げた。髭がつられてさわり揺れ浮かれる気分を露にした。
分厚いドアは開くのが遅く、その浮かれた様を“彼”に見られることは防がれたのが救いだ。
「たでーま…………あ、おまえ」
またか。
呆れたような声に私はまた、記憶の中から初めての際の声を掘り起こした。
聞いたことのない楽器をかき鳴らしたような怪訝な声。だけれど、それは聞いていて嫌ではない。
それどころかもっと聞いていたいと思ってしまう。なので“彼”に相対する時にはうっかり耳が蠢いてしまいそうになるのだが、どうにか根性でそれを抑え込むのだ。
のしのしと部屋の中、ワンルームの、私からすれば呆れてしまうほどに広々とした部屋に大きな足と凄まじい幅で踏み入ってきた主はその隅にでもなくちんまりと用意されたそれなりにふかふかとした猫用のベッドの中から私を抱き上げる。
馬鹿みたいに熱い手で。
「また餌食ってねえな? だからおまえはいつまで経っても怪我が治んねえんだよ」
にゃあ、と反抗するように私は鳴いた。
そうだ、私は猫だった。


産まれた頃はそうではなかった、というわけでもなく産まれた頃からしっかりと猫である。我輩は猫であるといった文学作品があるらしいが、私は生憎とそんなものは読んだことがない。だってこの肉球が桃色という頭の痛くなるような愛らしさで中央に鎮座する黒い手には例え小さな文庫本でさえ手に余る。
ならば何故知っているのかと言えば、それは“彼”が手にして読んでいたからである。
彼の名はランサーと言った。あまりにありきたりな「雨の日、ダンボールに入れて捨てられていた」私を物好きにも拾い、部屋に持ち帰った人間。
職業は大学生。住まいはこのアパート、ワンルームの部屋に私を迎えるまではひとりきりで住んでいた。
青い髪を長く伸ばし(正直な話、猫の身としてはその先にじゃれつきたくなる。切るか編み上げるかしてほしいものだ)、赤い瞳を湛えた白い肌の男。
顔立ちはおそらく美しい、人と猫という種族がまるで異なる彼と私であったが、本能的にそれだけはわかった。
ランサーはバイトを何件も掛け持ちし、家賃やら生活費やらを稼いでいるらしい。その行き道かもしくは帰り道かで私を見つけたというわけだ。やれやれ、全く不幸な男である。
しかも、拾った猫は怪我をしていると来た。
「ったく……」
ぶちぶちと文句を垂れながらランサーは台所まで歩いていく。その背を眺めて、また揺れる髪先に飛び付きたい誘惑を堪える。
やがてかちゃかちゃ、とんとんという簡単な調理音が私の元まで聞こえ始めた。私はそれを確認してからドライフードが盛られた銀の皿の端を咥える。
そうしてずるずる引き寄せれば、ランサーが首だけで振り返り苦笑した。
「ったく、甘ったれな奴」
にい。
一旦皿の端から口を離して、私はまた反抗するような声で鳴く。
違うのだ。そうではない。私はただ見張っているだけで。
この一種自堕落な人間が、きちんと食事をするか、それを共に食事を摂ることで認めようとするだけで。
他に意思はない。何もない。ないといったらないのだ。


私は、ランサーが帰ってきてからでないと餌を食べない。
それはドライフードでもウェットフードでも同じである。
慌しくバイトもしくは講義に出掛けていくランサーの背を見守り、分厚いドアがばたんと音を立てて閉まり、がちゃりと施錠音がするのを確認して、自らに用意されたベッドの中に体を押し込む。
そして、やけに発達した目を閉じるのだ。
後は、ただ待つばかり。
そう。ランサーの帰宅を。
少しは腹は減る。けれどそう動かなければぐうぐうと腹が鳴るまでになるわけではない。
それは耐えられるということである。
足に巻かれた包帯は、この男らしくなく几帳面な仕上がりだ。だから痛むはずはない。なのにランサーは毎回口にする。これだから怪我が治らないのだと原因のように。
にいぃ、と私は声を上げる。
レトルトパックが熱湯の中で煮沸される音で、その頼りなげな声はかき消された。


私に、幼い時の記憶はほとんどない。
それでも、親と食事をした記憶は少しばかり残っている。
独りでする食事というのは侘しく、寂しいものだ。
幼い時の私はそう思っていた。
人と猫との違いはある。
それでも、ランサーも少なからず思っていると思いたい。
そうでないと、私のしていることはただの茶番で三文芝居でしかないのだから。
「おら、出来たぞー」
部屋の隅にあるローテーブルを掴み上げ、ランサーが中央にセットする。
私はそんな彼に近付くことなく、丸まって餌の皿の前に待機した。頼りなげな声など上げることなく、けれど待ち侘びて。
ランサーは手を合わせ、今日もまた温めただけのレトルトカレーと切っただけのサラダ、野菜ジュースを前に手を合わせる、そして、
「いただきます」
私はそこで初めて彼に向けて、好意的な意味で鳴いてみせた。
そうして餌に口をつけつつ、強がっても腹は減っているものだなと実感する。
私が人ならばため息を吐きたかった。


視界の端にどこかの店の袋。その中からはちらりと、鈴の付いた赤い首輪らしきものが覗いて見えた。



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