さあ。
促す声にアーチャーは顔を上げた。
「早く行こうぜ。ここは空気が悪い」
「……イエス、マスター」
跪いたまま。瞳をゆるりと開いて、唇を蠢かせた。
扉を押す。そうすれば立場は変わる。
「なぁにが、」
イエス、マスター、だ。
くつくつ肩を揺らして笑ったのは青い髪の男。ランサー。
「それはこっちの台詞だってのに」
「それでは、」
跪きたまえ。
「イエス、サー」
先程まで自分を従えていた男が軽々しく床に膝を付く。あっけないほどの、それは陥落で。
「なあ、どうしてもいけねえの」
「何がだね」
一度立ち上がったランサーに丁寧に重いコートを脱がされながら、アーチャーはつぶやいた。ぱさりよりは少し重い、ばさりという音。
それを椅子にかけると、ランサーはまたもや跪く。
「おまえがオレの主人だって。周りに触れ回っちゃいけねえってのかい」
「馬鹿な」
つれない返事。それにもランサーは腹を立てることもせずに薄く唇を吊り上げるだけ。
「オレのマスターはご機嫌が悪い?」
「何を。これがいつもの私だろう?」
「ああ、如何にも」
吊り上がった唇を、舌が舐めた。
そうすればぴちゃりと音が鳴る。
「やめたまえ。獣臭い」
「オレはクランの猛犬なもんでね。獣臭いのも当たり前だ」
「――――なあ、君は」
不意に、アーチャーがつぶやく。
伏せられていた赤い瞳が目蓋と共にくい、と、上げられた。
「君は、何故」
何故、と。
繰り返し告げて、ランサーへと振り返り。
「何故、人前では私を下僕とさせる?」
「それが契約の条件だっただろ」
「そうだな。だとしたら、何故?」
「また、その繰り返しか」
いいぜ、聞いてやると。ランサーはつぶやいては笑う。
「何故、その条件を人前だけと限定する?」
「ふたりきりの時は、」
おまえの下僕でいたいんだ。
「……物好きな」
「そうでもないぜ」
心地良いぜ、すこぶるな、とランサーが尚も笑う。嬉しそうに。楽しそうに。アーチャーはため息ひとつ。
鋼色のまなざしで、そちらでも嘆息するように跪く自称下僕を眺めた。
「私は時折眩暈を感じるよ」
「感じるなら、快楽だけにしておけ」
「冗談も程々にな」
何が冗談なものか、と、ランサーは。
「人前では下僕、ふたりきりでは主人。めまぐるしくて、眩暈ばかりだ」
「仕方ないだろう。オレがそうしたい」
「勝手な」
身勝手な、と零すアーチャーにランサーは端正な顔を歪めて。
「ああ、そうだよ」
オレは身勝手な男だから、と笑う。
「なあ、マスター?」
「何かね」
「上手く出来たから、褒美が欲しい」
「…………」
アーチャーはため息を、ふたつ。
「おいで」
ランサーに向けて、そう、手招いたのだった。
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