「まだ逃げるつもりか? アーチャー」
両手に。
“黒鍵”と呼ばれるそれを持って迫ってくる少年に、男は眉を顰めて言い返した。
「別段、逃げているつもりはないさ。ただ、君が追ってくるから」
「俺のせいなの? ひどいなあ」
くすくすと子供らしく楽しそうに笑う。殺気を同時に滲ませているくせに。……器用な子供だ、と男は内心でひとりごちてから少年に向かって傷ついた腕と足を示してみせる。腕は掲げて、足は反対の手の指で示して。
「こんなことを君がするから。だから逃げる……君が言うにはな。それしかなかったのだよ」
「だって、アーチャーが」
「私に落ち度はなかったつもりだが?」
「……だって、アーチャーが虐めたくなっちゃう顔してたからさ」
くすくす。
笑って少年は物騒なことを言う。虐めたくなる、好きな子だから?それは小学生あるいは中学生までの子供が使っていい台詞で、少なくとも少年の年齢で使っていい言葉ではない。
それでも少年は男のことが好きなのだ。好きで、好きで、それだから病んだ。精神を病んで、それでも平常ですという顔をして笑っている。
……ついぞ、少年の笑顔以外の顔を見たことがないなと男は気付いた。もうそれは何度目に気付いたことだろう。少年は笑顔しか浮かべない。怒ったり泣いたりそんな感情を少年は誰かに向けたことがなかった。男相手だけではない。他の誰にもだ。
少年は人を殺す時も笑っている。人以外を殺す時も。
いつもいつでも笑っている。男に触れる時も。男を嬲る時も。男を甚振る時も。みんなみんなそうだ。みんなみんな笑顔でやってのける。
「士郎。私は君から逃げる気はないよ。だからその物騒なものを早く仕舞うといい。言峰に見つかればまた厄介なことになる」
「俺といるのに綺礼のことを喋るの? アーチャー」
「君のことを、心配して言っているんだ」
「…………」
しばらくの沈黙。
しゅん、と音を立てて少年の手から黒鍵の刃は消えた。柄をそのまま素早く服の袖に仕舞って、少年は微笑む。
「嬉しいな」
「……何故」
「アーチャーが、俺のこと心配してくれた」
こういうところは、普通の少年のようなのに。
「なあ」
「うん?」
「それ、痛い?」
腕と足の傷を示して少年が聞いてくる。そりゃあ痛い。黒鍵で容赦なく追い詰められて抉られた傷だ。少し考えてこくん、と頷くと、「そっか」と何故だか少々嬉しそうに少年は言って、胸に下げたロザリオをかちゃかちゃといじりながら男に近付いてくる。その口から迸るのは詠唱。治癒魔法のスペル。
「神よ、私はおまえに祈りを捧げる、だからこの身を癒せ。“amen”」
神に向かって“おまえ”呼ばわりとは随分と頭が高い。それでも少年の願いを神は聞き届けて、男の手より遥かに小さな手に緑色の光が宿る。それをまずは腕の傷に当てて、少年は男が初めて見るような顔をした。
こんな顔も出来るんだ、と思うような、真剣な祈りに満ちた顔だった。
「……痛っぅ」
癒していく寸前に痛みを残して、じくじくと膿んでいた傷は癒える。男は軽く呻いたが、叫ぶようなことはしなかった。
「これでよし、っと」
先刻までの真剣な顔が嘘のように少年はいつものように笑って、今度は足の方へと手をかざしてくる。
「ほら、今度は足」
「あ? ああ……」
だから素直に男が足を差し出せば、じっと少年はそれを見つめる。
「――――士郎?」
不思議そうに男がそう言えば、がばりと少年はその手で男の足を抱え上げた。「な――――」男の驚きを無視してちろりと舌を出し、膿んで、血の滲んだ足を、赤い舌でぺろりと彼は舐める。
「ん、っ」
思わず男が呻いてしまえば少年は楽しそうに口元を汚して笑って、「アーチャーのそんな声、貴重だよな」と呑気なことを言う。けれども開脚させられるような格好になった男はそんなこと聞いていられず、それでも少年を諌められない。
結局は、甘やかしてしまっている。少年を、甘えさせてしまっている。だから図に乗るのよと少年の義理の父である言峰綺礼の弟子、遠坂凛はふたつに結んだ、さながら悪魔か鬼の角のようなツインテールを怒りに跳ね上げそう言った。
やめさせなさいよあんた。これ以上士郎を調子に乗らせるんじゃないわよ。
調子に乗っているのだろうか、士郎は。私のせいで?男は思う。それは甘やかしてしまっている自覚はあるけれど、それでも。
それでも、男は少年を見離せない。
たぶんこれを少年に言ったら彼はこう言うだろう。その時だけ表情を消して。
違うよアーチャー。俺がおまえに見捨てられるんじゃない。
俺がおまえを見捨てるんだ。
でもね、そんなことはないよ。だから安心して俺の傍にいるといい。俺は絶対におまえを見捨てないから。何を犠牲にしたっておまえだけは見捨てない。他の、他の何を犠牲にしたっておまえだけは俺の手からこぼさないでいてあげる。
だから、ね?
――――だから、裏切らないで。
月の輝くそんな夜、裏口に続く渡り廊下で言われたことがある。赤い月だった。血のような色をしていた。
よく任務を終えた少年が帰ってきた時に顔や僧衣に飛ばしているような、真っ赤な血の色をした月だった。
裏切らないで、とは。
愚かなことを言うと男は思う。私が君を裏切れるはずがないのに。知らないのだろうか?深層心理、心の奥底にある“私”を少年はがっちりと掴んでしまっていて離さないことを。
それだから男は少年から離れられない。たぶん、少年が男に飽きるまで。
それを言ったらおそらく少年は怒る。初めて、男の前で怒ってみせる。アーチャー?何を言ってるの?俺がそんなことすると思ったの?ねえアーチャー。まさかおまえはそんな馬鹿じゃないよね。そこらへんの有象無象とは違うよね。なあアーチャー。俺を失望させないで。失望させるなよアーチャー。俺をね、がっかりさせたらそれで最後だよ。おまえは終わりだ。俺はおまえを永遠にする。この意味わかる?わからないなら教えてあげる。――――おまえが、俺を裏切った時にね。
幸いにもまだ、男は少年を裏切ったことがないのでその意味をまだ知らない。
「アーチャー」
顔を上げる。少年の幼い口元が男の血で汚れていた。ため息をついて手の甲で拭ってやる。するとその甲をちろりと舐めて、少年は男の手首を捕まえた。
「アーチャー、たぶんこういうの“愛してる”って言うんだろうな。“愛してる”よアーチャー」
この少年はとことん歪んでいる。手の甲を舐められながら、男はもう一度深々としたため息をついた。



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