テーブルの上の紅茶が満たされたカップ。
床に転がるぬいぐるみたちと、それとは正反対な分厚い魔導書。
そこはイリヤスフィール・フォン・アインツベルンの自室。少し窓を開けているから外から風が入り込んできて、ドレープの凝らされたカーテンを静かに揺らす。
「アーチャー。……アーチャー、――――シロウ」
まるでそれが引き金になったかのように、鋼色の瞳が開いた。
「ふふ」
それとぱちんと視線を合わせて、赤い瞳が微笑む。未だまどろみの中にいるかのようなその表情を見守る鋼色の瞳。ねえさん。そう唇が動き膝の上の小さな白い頭の持ち主の名を呼んだ。
「座ったまま眠るなんて、器用な真似をするのね。それとも狸寝入りかしら。……わたしに、“シロウ”って呼んでほしくて」
そんなことしなくったって、いつだって呼んであげるのに。
イリヤスフィールは大きな弟に向けて微笑む。そしてその、己と同じ色をした頭を撫でた。何度も。何度も、何度も、何度も。
「ね、えさん、」
頼むからよしてくれ。
繰り返し撫でられることによってせっかく整えられた髪は降り、すっかり童顔といった要素を醸しだす一部となってしまっている。
いつもそうなのだ。いつもいつでもいつまでも。アーチャー……エミヤシロウは、イリヤスフィールに逆らえないし上位に立つことも出来ない。ただただ彼女の好きなようにされて、可愛がられて面映い気持ちでいるしかないのだった。
だから。
「……ねえ、さん」
「ん?」
「頼みたいことがあるんだけど、いいかな」
「なあに!?」
途端に体を起こして身を乗り出してくる彼女に苦笑いして、エミヤシロウはこしょこしょこしょ、とイリヤスフィールの耳元へ耳打ちした。イリヤスフィールはくすぐったそうにそれを聞いていたものの、全てを聞き終えるとその愛らしい顔を喜びに輝かせる。
「うん、うん、うん……もちろん! もちろんじゃない、わたしがシロウのお願い聞かないことなんてあった?」
「……言うこと、無視、されたことはあったけど」
「それはそれ、これはこれ!」
ころころと転がりエミヤシロウの膝の上から床の上にあったクッションへと落ちると、イリヤスフィールは慣れない様子で正座をし、そのか細い膝をてのひらでもって何度か叩いて彼に促した。
「さ、おいでなさいシロウ。用意は万端よ、お姉ちゃんの膝枕、とくと味わいなさい!」
「――――うん」
恥ずかしげにエミヤシロウは答えると、小さくて仕方ないイリヤスフィールの膝に注意深く己の頭を乗せた。ずしり、とかかる重みにイリヤスフィールが、目を丸くするのがわかって彼は。
「……大丈夫、ねえさん?」
「大丈夫よ! だってわたし、シロウのお姉ちゃんだもの! だから平気!」
自信を持って甘えかかってきなさい!
片手ではエミヤシロウの髪を撫でながら、反対の手で胸をばしんと叩いたイリヤスフィールにエミヤシロウは先程の彼女のように目を丸くして。
「うん、ありがとう」
ねえさん、とつぶやいてなるべく彼女の負担にならないようか細い膝に頭を乗せた。
「ねえ、シロウ」
「うん?」
「気持ちいい? わたしの膝枕」
「……うん。すごく、気持ちいい」
温かくて、柔らかくて、ただちょっと危なっかしいけど。
最後の言葉だけは呑み込んで、エミヤシロウは髪を梳く姉の、イリヤスフィールの小さな手の感触に酔う。普段は出来ないこと。とてもじゃないけれど、言えやしないこと。
恥ずかしくて、照れくさくて。
それでも。けれど。
決定的に思っていたこと。信じていたこと。イリヤは、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは、姉さんは。
きっと“オレ”の気持ちをわかってくれるから、と。
――――だから、吐露してみよう。胸の奥に抱えたこの気持ち。
そして願いは叶えられた。自分は温もりを得られた。ホムンクルス?人間?どうだっていい。
ねえさんがいてくれるのなら。何だっていいんだ、そんなこと。
「ねえさん」
「はいはい、どうしたのかしら?」
甘えん坊のシロウ。
くすくす笑いながら言ってくるイリヤスフィールに、エミヤシロウは目を閉じたまま。
「風が。気持ちいいな」
「……そうね。今日は、天気がいいものね」
後になったら、お散歩にでも行きましょうか。庭園をふたりっきりでお散歩するの。
未だ髪を梳きながらイリヤスフィールは言って、その声の蕩けるような甘さに水の底に沈んでいくような感覚に捉われて。
それでも、もがいたりあがいたり、水面に顔を無理に出そうなんてせずに、そのまま沈んでいこうと。温かい水の底に、そのまま。
それはきっとイリヤスフィールの持つ心象風景。広い広い、小さな彼女が有するのは少し似合わないほどに広い、湖だ。
そういえば、この城に湖なんてあったっけ――――。
「シロウ。……シロウ?」
ああ、だんだん、意識が遠ざかる。
「ねえ、シロウったら。返事してよ……。もう……」
そんな風に言いながらもイリヤスフィールの声は笑ってしまっていた。エミヤシロウの体全体から力が抜け、姉の腕に縋っていた手は離れて床にぱたりと落ちる。
「……お姉ちゃんを放っておくなんて本当に仕方のない子。それでもおやすみなさい、シロウ。きっと目が覚めたら、綺麗な夕焼けが見れるわよ――――」
ああ。
ねえさん、あなたとそれを見られたら。見られたのなら、限りなく嬉しいことだろう。
思いながらエミヤシロウは、イリヤスフィールの湖へと沈んでいったのだった。
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